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見えない者 [詩集 井戸]

   


   見えない者


人の中からぬけ出てゆく者がいる

澄みわたった空の下で そよりと音もさせず

涼しくぬけ出てゆく



さえぎろうとして立っているどんな透(す)ガラスをも

すらりとくぐりぬけて

影が 部屋の中からガラスの向う側

明るい外の世界へ出てゆくように

それは人の中からぬけ出てゆく



その時も空は同じ深さ

その時も木立はざわめきもせず

人の眼の中に映っている

すべてが静かさを保ったままだ



人の体のどこかに

誰にもまだ発見されずに残っている素足のような世界

どのような陰影の濃い言葉によっても

言い表されたことなく

いつも言葉のうしろにとり残される世界

こぼれ落ちる海

その者自身によっても気づかれたことがなく

その者の奥にひろがっている領土

人称によって表されるかぎりの人間の誰にも

入ってゆくことのできぬ領土へ

彼は涼しくぬけ出て涼しく入ってゆく



檻の中に飼いならされた動物

しかしその動物の奥に

飼いならされぬまま住んでいる野生の動物が

人の眼の前を 誰にも気づかれずに

かつて棲んでいた原野の方へ

その広々としたひろがりを眼にうかべたまま

檻目をくぐりぬけて出てゆくように



晴れわたった空の深みに しんとして立っている木立が

繁みも足元の蔭の濃さもふるわせずそのままにして

その木立に重なって立ちながら

別の世界の中に生え 別の空に枝を延ばしている見えない木立

誰によっても発見されたことのない別の木立と

不意にすらりと入れかわるように



柵に囲まれた牧場の中で

草を食べている馬の たれたうなじから首筋をのばし

一声いなないて

鳴き声を牧場の空にいつまでも残したまま

柵で区切ることも 囲いの中に収めることもできない

広々とひろがる眼に見えない領土へ

柵を越えて出てゆくように

見えない者は 人の中からぬけ出てゆく



彼はぬけ出すとすぐに姿を消す

こぼれたインクがインク消しに吸いとられるように

誰にもまだ発見されたことのない地図

人にとっては白地図としか見えない地図をたどって

不思議な世界 未知の領土へ入ってゆく



彼は鋭い耳を持つ

耳は冴えきった聴覚をその底にひろげている

そして彼は

さまざまな声の中に一つの声をききわける



人のなげきの姿 人のいたましい姿

人間からこぼれ落ちた者の喉の奥から

かすかに伝わってくる声をききつけては

とりわけ彼はぬけ出てゆく

火が火に呼ばれるように

血が血に呼ばれるように

谺が谺に呼ばれるように



人と人とを区切っている眼に見えない境界をも

やすやすとくぐりぬけて

どんなに遠い距離のはて

言葉もたどりつくことのできない遥かな領土

見ず知らずの者のところへも

海を渡り 幾つもの地平線を越えて

同じ体温を持つ彼らだけが知ることができ

彼らだげが入ってゆけるところへ

出かけてゆく



そしてどんなに遠いところからも一日で帰ってくる

誰にも気づかぬ眼に見えぬ姿で

誰によってもまだ発見されたことのない 自分の奥の世界へ

ぼんやり立っている言葉のうしろにひろがっている領土

ぬけ出すたびに いっそう

はてしない奥ゆきでひろがってゆく未発見の領土へ

彼はひっそりと帰ってきて

また身を横たえる






















タグ:見えない者
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