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涙2 [詩集 井戸]



   涙 2


それは深い川だ。それをひそませている人の体は奥深い。だがそれよりも も

っと深いところを それは流れている。どこにそれ程の水量はみなもとを発し

 いつから住みつき そしてどういう地図をめぐり せせらぎの音もたてずし

のびやかに流れ どんなよどみに注ぐのであろうか。

皮ばった老人の乾いた領土のいかなるはずれに それ程の深みがあるのか。小

さな子供の小さい地図の どの辺をそれ程に深い川は流れているのか。ふしく

れだった男のけわしい無口の表情の下 どの辺まで降りていったところに そ

れ程の水嵩は地下水となってしまわれているのか。(レントゲンで透(すか)してみて

も 広々としたアフリカ大陸のような景色が見えるだけで 姿は見えない)



ひるま 青空や木立の繁みを映したひとみのずっと奥を それはひんやりと流

れ 夜 ねむりの下を 涼しく 静かにしずかに流れている。どこからしのび

こんできたのか 時に夢が流れを下ってゆき どこをめぐっていたのか 水平

線のかなたに姿を消したはるかな昔の難破船が通ってゆく。時にまた魂が水を

深々と染めて下ってゆく。



その深さを測ろうために 人は時として深みにむかって 吊り糸を垂直にたら

す。だが一つとしてその深みに達したものはない。時としてまた 人は小石を

投げる。遠いかすかな水音によって深さを測ろうために耳を澄す。だが静寂は

小石をのんだままこたえない。かえって 静寂の奥深さが 測り知れぬ水の深

さを人に知らせる。



どのような日でりにも蒸発することなく それは深々としてあり めぐってき

ては去る季節にも 外界の雨期 乾期にも 同じ深度を保って流れつづける。



人が互いに向いあっている時 互いに表情に見入っている時 また笑いさざめ

いている時彼らの横顔のはるかな奥を遠く迂回して流れ 失ったもののとりか

えしのつかなさに われを忘れておもてを走っている時 突然の人の死に青ざ

めて立ちつくす時 そしてまた 何ものかにいっしんに見入っている時 それ

らの表情の下を 川は次第に水嵩をましながらも しのびやかに流れている。

行き倒れた者の留守になった体の奥を 出口を失っていまだに流れている涸れ

そうな川 やがてあふれるであろうその時にいまだ気づかず 眼の奥の遠い空

の下を流れている かえりを待っている者の深い川



やがてそれらのきわどい静止の一瞬が崩れ去ったあと 不意にせせらぎの音は

近づいてくる。するともう川は ひとみのすぐうしろに水嵩を増している。ひ

とみをひたしてみるみる水位はのぼってゆく。あふれ出た水は 人を 人の心

を濡らしてゆく。



やがて せせらぎの静まったあと あふれ出た水跡を二筋三筋頬にひき 川は

どこへともなく姿を消している。人は まぶしい日ざしの中にうなだれたまま

とり残され ふたたび澄みきったひとみの中に 空や木立はふるえずにしんと

立ち あふれ出たことによって一層かげり深くなった人の体の奥を 涙の川は

深々と流れている。














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