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短歌は弱い心の棲家か   (その2) [評論 等]



 事の順序として小野十三郎の説明を引用す

るのがやはり便利であろうと思う。「短歌的

なものを否定しなければ詩の発展はのぞめな

いと考える」小野は、「短歌的なもの」につ

いてこう書いている。

 「私たちの心の中にはまだまだ古いものや

弱いものがたくさん残っている。しかもその

古いものや弱いものは、それなりに確固とし

た抒情の科学を持っているから、これを打ち

破ることはなかなか困難である。(中略)そう

いう古い心、弱い心としての『短歌』が……」

 ここで小野の言っている「そういう古い

心、弱い心」がどういうものかこれだけでは

不文明であるが、更に次のような言葉を読み

続けていくと、依然として不文明さは払拭さ

れぬままながら小野の言うところのものがい

くらか私にもわかってくる。

 「『弱い心』、即ちちょっとした衝動で感傷

にくずれ詠嘆となって己れを傷つけるこの

『弱い心』の作用」

 更に啄木の


  石をもて追わるるごとくふるさとをいでし悲しみ消ゆるときなし




ふれて言っている次のような説明

 「もしそういう弾圧をこうむった人間が、

その時の感慨として、これを『石をもて追わ

るるごとく』という風に感じ訴えたのでは、

ただ個人的な悲壮感として浮き上がってしま

う。それは感傷的なヒロイズムで、追わるる

者の真の実感を伝え得ない。啄木の時代やそ

の環境を考えずに、今日このような詠嘆調に

甘えていては、相手はますます図にのるばか

りであり、そのような孤独な抵抗によって

は、それがどんなにはげしいものにせよ、敵

は決してまいらないし、むしろ逆にその詠嘆

を利用しようとさえにするにきまっている。こ

こに短歌的リリシズムによる抵抗が、このよ

うな時代、このような相手の場合では、抵抗

としてあまり正確でない謂われがある。」

 などを読み、更に中野重治の「お前は歌ふ

な」で始まる詩『歌』、にふれて述べた部分

を読んでみる。

 「この詩は私の詩論を説明するためにも具

体例として必要なのだ。民衆の動きの中の革

命的なモメントを洞察することにかけては人

一倍敏感なこの詩人も、一方においては、民

衆の感情の中にはまだ非常に脆いもの、ちょ

っとした衝動で感傷となり詠歎となってその

まま敵の方にくずれてしまうよりないもの、

不安定な要素があることを知っている。それ

は私が『短歌的抒情』という言葉で置きかえ

たところのものと同じものだ。」

 「民衆の感情の中」にある「非常に脆いも

の」としての「感傷」や「詠歎」を「『短歌的

抒情という言葉で置きかえ」て、それらの

「不安定な要素」を否定することについて

は、私にも異存はない。それは激しくうたね

ばならぬ。しかし小野がここから更に進んで

次のように言う時、私には異存がある。

 「では具体的には、その短歌における思想

というものはどういうところにかくされてい

るかというと、その形式、三十一音字音数律

が生む一定のバイブレーションの中にそれは

かくされているのである。この一定の秩序を

持った波を、私はリズムとよんでもよいと思

うが、このリズムにはまた一定の思想しか乗

り得ない。(中略)かりに封建的服従的人間

像ではない、それとちがった新しい創造的な

人間像が投影し、新しいイデオロギーがはい

ってきても、そこでは忽ち変質してしまう。

そういう作用をこの短歌形式と音数律は持っ

ているのである。」

 まして更に続けて次のように言う時、私は

小野の考えに全く承服できない。

 「私の実感をもってすれば、五七五七七

(むろんその破調も含めて)の音数律によっ

て形成されるその音楽性とリズムの中に伏在

する一種の習慣的な秩序が短歌の内容そのも

のに他ならないのである。だからどんな革命

的テーマをあてがっても、また生活実感を

もってしても、それらが一たんこの秩序の廻

転の中にはまりこんでしまうと(それは多く

の場合詠歎そのものだが)、たちまち見るかげ

もないものと化す。慣習的な歌の法則がそれ

を馴らしてしまうのだ。」
 
 つまり小野は「ちょっとした衝動で感傷と

なり詠歎となってそのまま敵の方にくずれて

しまうよりないもの」、「古い心、弱い心」そ

れら「不安定な要素」を「短歌的抒情」とし

て否定しようとした点においては正しかっ

た。しかしそういう要素の否定にとどまら

ず、この程度の「具体例」から敷衍して、

「五七五七七の音数律によって形成されるそ

の音楽性とリズムの中に伏在する一種の習慣

的な秩序が短歌の内容そのものに他ならな

い。」という性急な結論を導き出し、そのこと

によって「要素」の否定のみならず短歌全般

を無差別に否定しようとした時、正しさを

失ったと私は思う。

 











以下、その3に続きます。

短歌は行間をあけ1行にしました。石川啄木の啄はこの啄の真ん中のながれ?に逆のながれ?がはいります。












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