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短歌は弱い心の棲家か   (その3) [評論 等]




 記紀、万葉以来現代に至る短歌(私が読み

得た狭い範囲の短歌についてみても)総て

を小野の言う「短歌的抒情」として否定し去

ることが出来るだろうか。つまり総ての短

歌が「短歌的抒情」というような「古い」

「弱い」要素・内実しか持ち得なかったかど

うか。その点の調べあげが必要であろう。前

置きがくだくだしくなった。


 帰りける人来れりといひしかばほとほと死にき君かと思ひて



 茂吉は『童馬漫語』の中で「独詠歌と対詠

歌」ということを言い、万葉巻十五「娘子の

作れる歌八首」中のこの歌を「『対詠歌』と名

づけ」ている。「併し『対詠歌』は対者(あひて)に対する

其の情調が表われていなければならぬといふ

のは無論であるが(中略)、予の謂うこの『対

詠歌』は、いかにも直截に緊密に対者(あひて)にむか

ってゐて、余所余所しくないということであ

る。つまり対者にむかって物言(ものい)ふに、余所見

をしない、対者以外の第三者に色目(いろめ)を使はな

いといふことである。」

 「直截に緊密に対者にむかってゐて」「対

者以外の第三者に色目を使」っていないこの

短歌の「情調」を、しかし例えば小野が言う

意味での「個人的」な「孤独」なものとは私

は考えない。武田祐吉『増訂万葉集全注釈』

によれば、「カヘリケルは、地方から帰った

人。これは天正十二年六月に大赦によってゆ

るされた流人たちをいふのだろう。」となって

いる。また茂吉の『万葉秀歌』には「天平十

ニ年罪を赦されて都に帰った人には穂積朝臣

老以下数人ゐるが宅守はその中にゐず、続紀

にも『不 在 赦限 』とあるから」云々とあ
      二  一
る。事実の詮議考証は私に力もないし今はお

くとして、「帰りける」という表現は、「帰

りける」という現在の事実に先だつ出かけて

行った或いは曳かれていったという自明の事

実の上にわれわれの注意を喚起させると共

に、その場の様子を想起させ、そのこととの

かかわりにおいて「ほとほと死にき君かと思

ひて」という四、五句のしらべと内実感情が

強い実感として読まれ、そしてそこに宅守が

出かけて行った或いは曳かれて行ってから

「帰りける」迄の時間の介在、その長い或い

は短い期間中、狭野茅上娘子がどんな心で宅

守の身の上を考えつつその帰りを待ち望んで

いたかが充分に推測される。娘子は待ってい

た。「帰りける人来れりといひしかば」とい

う一、二句を読む時、そのしらべと内実から

判断して、娘子が彼女の感情のすべて思いの

すべて、視覚も聴覚も触覚までをも宅守とい

う人間存在一点にのみ注ぎ、宅守だけに思い

をこらしきっていただろうことが考えられ

る。宅守に対するこういう充溢した思いを持

ちこらえていた娘子は、当然宅守の帰りに期

待を傾むけ注意を注ぎきっていただろう。そ

の時の娘子の神経や感覚の冴えは、例えば額

田王の


  君待つと吾が恋ひ居れば吾が屋戸の簾うごかし秋の風吹く


にみられるが如きは

りつめ方、冴えきり方だったろうと私は思

う。






















以下、その4に続きます。

短歌は1行にしるし、「」をのけ、行間をとらせてもらいました。







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