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短歌的抒情覚書 2  (その1) [評論 等]





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 私はここで小野十三郎の提起している抒情の問題に直接触れてゆ

くべきかも知れない。しかしその前にもう一つ今日行われてる否

定的な見解に対して持っている私の疑問を述べたいと思う。それは

吉本隆明も彼の「短歌的喩について」(短歌研究昭和35年6月号)に於

てふれている問題である。そして吉本の見解に私のそれも一致する。

 明治初年の荻野由之「和歌改良論」以来、佐々木弘綱、落合直

文、与謝野鉄幹を経て、更には正岡子規の「歌よみに与ふる書」を

そこに含みつつ、明治四十三年におこった尾上紫舟、石川啄木らの批

判論へとつながる一連の短歌批判についてみても分かるように、短

歌の問題はそれぞれ論じざまの違いはあれ繰り返し論じられて今日

に至っている。私は今それらについて詳細な論考をこころみる余裕

を持ち合わせない。しかし私が考えるにそれぞれの短歌批判論がそれ

ぞれのニュアンスをもって繰り返し取り上げてきた主要な問題点

は、尾上紫舟がその「短歌的滅亡私論」(明治43年10月「創作」)に述

べている三点に要約できるように思う。紫舟は「近来の短歌が、昔

のやうに一首々々引き抜いて見るべきものでなく」「一括して見る

べきもの、殊に一人の歌集の如きは何百首あらうとも、それを一と

してみるべく、個々として見るべからざるものとなったといふ」こ

とを「前提」として「短歌の存続を否認しようと思ふ」論拠をあげ

ている。(桑原武夫が俳句批判論に於て取り上げている問題もこの

「前提」に類似している。)

 ①「数多の歌がただ一として見られるならば、何故に始めからそ

れをただ一つとして現はさないか。それを一々に分解した形であら

はす必要がない。」②したがって。「短歌の形式が、今日の吾人を十

分に写し出す力があるものであるかを疑」い、③さらに、、「主とし

て古語を駆使することがまた、自分らを十分に写しえないと思ふ」

という三点である。











以下、2の(その2)へ続きます。














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