越境者 [詩]
越境者
1
久しく
行方を絶っていた越境者が
わたしに帰ってきた
坂の上にひろがる夕照の中から
少し疲れた様子をして
彼は いまだわたしに成就されぬ予感の世界から
いくつもの雨 いくつもの天気を越えて帰ってきた
数多(あまた)の獲物を さかさまに吊し……
それらの多くは 傷を負った小鳥たちや
すでに息絶えた生きものたちであり
流された血はまだかわいていなかった
彼の憂愁に色どられた顔は少し傾いて暗く
耳はさまざまの声を孕んで 深くさわいでいた
眼には今しがた通り過ぎてきた世界の恐怖が揺曳しており
遠く傾むく水平線と
そこに沈んでいった国籍不明の船の残映が瞳孔にあった
彼は そうして今
雨あがりのあとの
まだ水溜りのかわかぬわたしの眼底を
魂の方へ 深く曲っていった
2
彼はわたしの生が始まるとほぼ同じ頃
けじめもつかぬ仕方で現われ
わたしの裡で成長してきた
彼の脈膊はわたしのそれと重なり
わたしの鼓動のはずれで鼓動し
わたしの眠りの中で彼は寝がえりをうった
彼のやヽ間遠な跫音はわたしの歩幅の中に消え
彼は一度としてわたしの生の中で現像されたことはなかった
しかしひそかに彼は
わたしの耳の中で より深い彼の耳を育て
わたしの眼の裏で より透視のきく視界をひろげつずけていたし
わたしの言葉の中で沈黙を深めていた
そして何のまえぶれもなく
容易に彼はわたしと入れ替った
彼が現れる時 わたしは消え
わたしが在る時 彼はわたしの中に消えた
時として 彼が降り残したまばらな雨が
わたしの中でしばらく降りつずくことはあったが
3
わたしの生の囲いの内は
危険な場所や秘密の場所にみちていた
海鳴がきこえ
正体不明の声が漂流していた
しかし彼の存在はそれらよりも一層危険や秘密にみちていた
わたしの生の裡に姿を消えてひそみながら
わたしの領域をはるかに越え
わたしの予測を越えた世界にも生きていたから
そして彼は わたしの耳の知らぬ声を聞きとり
わたしの視界の外でおこる海難事故や
登録されることのない出来事を見ていた
やがて彼は 不意に
わたしの脈膊や鼓動の中から身をおこし
たたまれていた洋傘をひろげるように聴覚をひろげ
視界を明晰に整えると
ややうつむきかげんに立つわたしを越え
次第に深まる予感の中へ
まっすぐ背筋をのばして 行方を絶った
「詩学」 S45年 2月号
2015-06-04 21:46
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