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力(ちから)についての註釈 [詩]





   力についての註釈


註1


それは人の身内(みうち)に潜みつづけ

吐く息 吸う息を操ってぼくらの呼吸を整えながら

その合間に しばしば

「生」の内部構造の底から

魂の深みを汲み上げてきては 喉にこぼす。

ーー井戸水を汲み上げてきては こぼすように。

汲み上げられた量によって 魂は

強弱さまざまな叫び声となり つぶやきとなり かすれ声となり

また すすり泣きの声となり 歌声となり……

あるいは母音と子音の響きを伴った言葉となって

外に洩れる。



註2


それは姿を持たず 地下水のように

変幻自在にぼくらの感覚の下をめぐっているけれども

その総量は一定である。

それは感情をひたし 魂をみたし 思念を翳らし

そうして 満ち引きを繰り返しては

体の部分々々にそれぞれの陰影をもたらす。

それがどこからともなく差してくる時

筋肉はわずかにふるえながら 湿りを帯びる。



註3


それは沈黙に似て深く

沈黙に似て捉えようがない。

「どこに」いるのでも 「どこか」に在るのでもない。

すべてに偏在するのだ。

それは 複雑さの極みに潜む単純さであり

単純さのなかに含まれる複雑さだ。

抽象であると共に具体であり

演繹的でありつつ帰納的だ。

肉体に属しながら 同時にそれは精神に属している。

一度としてそれは それ自身としての姿を見せたことがない。

しかし すべての行為の真中に それは来て 立っている。



註4


遠い潮騒のように

はるかかなたで

寄せては返すかそけき気配を繰り返していた それは

腕のつけ根を迂回して

不意に手にみちてきて

重みを吊るし 物を運び

垂直に沈む重力を支え 落下を受けとめ

水を汲み 器をみたす……

しかし時としてそれは 途中で急に何者かに呼ばれて

精神の内奥へ引き去ってゆく。

俄に萎えた手から物はこぼれ落ち あとかたもなく壊れる。

内から拒まれて立ちつくす手の

にじんでいる血や 痛みの下に

重みの余韻が いつまでも消えずに蔭を落している。



註5


それは眼のうしろの暗がりに そっと来て

伏せたまぶたをひらかせる。

翳りの奥では まなざしに深さを与え

まぶしい光のなかでは 眼を細めさせる。

しだいに視界は広がりながら澄みはてて

やがてぼくらの内部に 遠い海が見えてくる。



それはまた 内耳の奥にだまって立ち

まだ幾分ふるえている真新しい聴覚をひらかせる。

透き徹った皺をのばしながら。

朝毎に 濃淡深浅さまざまな色に澄む

朝顔の花びらが

外気にうながされて そっとひらくようにして。



註6


少女らの内側を それはしのびやかにめぐって

その肉体に起伏と陰影をもたらし

胸にしのび入っていつしか乳房にふくらみと弾力を与え

血のあげ潮をいざなう。

そして夜ごと 彼女らの体を開かせたり閉じさせたりする。



註7


それは前触れもなしに走りだす。前かがみになって。

意志もそれをとどめることができない。

意志のとどかぬ先をは走って行くのだから。

脚をはるかに越えた速さのために

追いつけずに脚をしばしば縺れる。

激しい息づかいだけがわずかにそれについてゆく。

驚いて見送る心を置き去りにして

それはやがて 後姿を見せたまま

遥か彼方の世界に消える。



註8


一方に片寄り過ぎてそれが現れる時

ぼくらの内部構造はバランスを失って傾く。

汲みためられた水がこぼれそうになるように

心や魂はゆれてやまない。

だが それとほとんど同時に別の力が働いて

ぼくらをもとの位置にひきもどそうとする。

そしてしばしば ひきもどし過ぎて

かえってぼくらを逆の方向に傾ける。

本来の位置に重なり得ずに たえずに左右にずれつづけるぼくらの存在。

だがその不安定なゆれの間隙に

ぼくらの「生」は位置を占めながら内部構造を垂直に組み立て

しだいに世界を深めてゆく。



註9


時あってそれは 精神を遡る。

感覚が濾して沈めた映像や陰影をひたしたまま。

やがてそれは 心にみちて意志となり

魂に澱んで思考の奥ゆきとなり

胸に湛えられて感情の襞となる。

そしてふたたびそれは体の隅々に下ってゆき

それぞれの部分に濃淡さまざまな淀みをもたらし 翳りを与える。

噴水が上昇と落下を繰り返しながら

はてしなく還流しつづけるように。



註10


一日が暮れる頃

「疲労」の形に人を残して

それは感覚の下を どこへもなく引き去ってゆく。

わずかに吐く息 吸う息となって

ぼくらの呼吸を整えているばかりだ。

だがそれはまたすぐ戻ってくるだろう。

そして内側から人を促して 「疲労」の中から立ち上がらせ

ふたたび人を歩かせて 昨日よりも遠い世界へ行かせる。











 「詩学」 S56年 4月号


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