SSブログ

芭蕉の一句   (その3) [評論 等]




 杜甫『春望』の「感レ時花濺レ涙、恨レ別驚レ心」の読み方、芭蕉の

頃に於ける読み方、詳しく言えば芭蕉がこの詩をどう訓読していた

かという学者達にたいする質問である。私などは学校で教わった時

から「時ニ感ジテハ花ニモ涙ヲ濺ギ、別レヲ恨ンデハ鳥ニモ心ヲ驚

カス」という読み方をしてきた。ところが何年か前に吉川幸次郎

の『新唐詩選』を読んでいて、吉川が「時ニ感ジテハ花モ(・)涙ヲ濺

ギ、別レヲ恨ンデハ鳥モ(・)心ヲ驚カス」(傍点笹原)と訓読してい

るのを知って感心した。それ以来私は頭の中に小さな質問を持ち

つずけてきた。

 つまり「花ニモ涙ヲ濺ギ……鳥ニモ心ヲ驚カス」と読んで疑わ

なかった私は吉川の訓読に従えば、涙を濺ぐ主語(主体)、心を

驚かす主語(主体)が花であり、鳥であることを教わったのであ

る。花及び鳥を主語とみて理解する時、この詩の、特にこの二行

の詩的世界、イメジが従来の読み方に従った場合と全く違ってく

ること、私の考えを言えば、吉川流の読み方に於ける場合は、イ

メジの質と拡がり、ポエジイの世界がきわだって緊密の度合いを

増してくること、更に「時ニ感ジテハ」の時の「感じ」、「別レヲ

恨ンデハ」の別れを恨む感じと感動内容が、したがってそこから

して当然「行春や」の詩的内実が微妙にそして質的に違ってくる

と思われるのである。芭蕉はこの有名な『春望』をどう訓読して

いただろうか。「花ニモ……鳥ニモ…」と読んで芭蕉の詩的深層

に『春望』はたくわえられていたのだろうか、それとも「花モ…

…鳥モ……」であっただろうか。つまり私は山本の「直接に芭蕉

の発想につながっているとは思えない」という言葉を如上の事柄

にもかかわらせて興味ぶかく考えるのである。












以下、その4に続きます。




nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。