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芭蕉の一句   (その4) [評論 等]





 「師ある方に客に行て、食の後、蝋燭をはや取べしといへり。夜

の更る事眼に見へて心せはしきと也。かく物見ゆる所、その自心

の趣俳諧也。」『くろさうし』)

「食の後」他の誰の眼にもまだ世間は明るく蝋燭に灯をともすべき

ものとは見えぬ時に、一人芭蕉の眼には「心せはし」く迫ってくる

「夜」が見えたのである。「夜の更る事眼に見へて心せはしきと也」

という叙述は実に具体的で視覚的に鮮かである。「夜の更る」という

夜の深さが深さのまま音もなく、しかしはっきりとして、明るさの

はてから、明るさを己の深さの中にだきこみ消しこみながら近づい

てくるさまが聴覚の冴えをともないつつ、しかしより視覚の冴えか

えりに於いてとらえられている。「蝋燭をはや取べし」という表現

がこのことを一層具体的にしている。そして「心せはしく」迫って

くる夜にむかってひきすえられた芭蕉のただ事ならぬ眼を私達はこ

こに見るのである。まだ明るい空気、気配の中でひらかれている幾

つかの眼のうち、ただ芭蕉の眼にだけ、「心せはし」く迫ってくる

夜の姿がありありと映っていたのである。こういう芭蕉の眼のくば

り、ほとんど心眼と言うべき鋭い神経の冴えは、自然に対してのみ

でなく古典に対してもきいていたに違いない。「かく物の見ゆる所、

その自心の趣俳諧也」という言葉は意味深く思われる。「古人の跡

をもとめず、古人のもとめたるところをもとめよ」という有名な葉

を引用するまでもなく、古典、伝統は更にこういう芭蕉の眼でとら

えられ、そして古典、伝統は更にこういう芭蕉の眼を養っていった

と言えると思う。そこに古典、伝統の本当の生かされ方があった。

 芭蕉が伝統にどう対したかについては多くの人達がふれており、

例えば杉浦正一郎はその著『芭蕉研究』に於いて、俳諧式目及び恋

の句旅の句に対する考え方、そこに見られる芭蕉の革新へのはげし

い意志に具体的にふれているし(「芭蕉に於ける伝統について」)、

広末保は『芭蕉・その詩と思想』『転合書の文学』などに於いて文学

精神、詩精神の面からふれている。私は今それらの諸説を敷衍し

て何らかの意見を述べる力を持ち合せないが、一体に私は江戸文

学全般に関して大ざっぱな言い方だが伝統に対した対し方、その

対決の姿に、一つのきわだったものを見るのである。とりわけ多

くの人と共に西鶴と芭蕉及び蕉門の人達にそれを見るのである。

遠山茂樹は書いている。(『思想』一九六一年七月号「国民的伝統

の評価について」)

「日本的文化の成立期に、民衆的創造的契機があったかなかった

かという 事実の次元に、民族文化の問題があるのではなかっ

た。客観的に民衆的創造的契機がったとして、それがいかに民

衆によって主体的に自覚され、蓄積されてきたか、いいかえれ

ば、新しい芸術創造の力となりうるような古典が形成されたかど

うかが明らかにされなければならなかった。」

 広末保は書いている。(『前近代の可能性』)

「伝統が伝統として自覚的に意識されるには、伝統を拘束として

感ずるような主体の成熟がなくてはならない。」











以下、その5に続きます。



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