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幾つかの詩   (その2) [評論 等]





 冬の日の記憶

               中原中也


昼、寒い風の中で雀を手にとって愛してゐた子供が、

夜になって、急に死んだ。



次の朝は霜が降った。

その子の兄が電報打ちに行った。



夜になっても、母親は泣いた。

父親は、遠洋航海してゐた。



雀はどうなったか、誰も知らなかった。

北風は往還を白くしてゐた。



つるべの音が偶々した時、

父親からの、返電が来た。



毎日々々霜が降った。

遠洋航海からはまだ帰れまい。



その後母親がどうしてゐるか……

電報打った兄は、今日学校で叱られた。



 幾つかのモチーフが繰り返しが行われ、大部分の行が「タ」

音で終結しており、一見寡黙な語り口を持っているこの詩の背

後には、過剰な一つの物語がひそんでいる。「寒い風の中で雀

を手にとって愛していた子供」の急な死は、物語の発端であ

り、詩的感動をさそう地下水になっているが、この詩の表現上

の焦点は実はそこにはなく、子供の急な死に直面して肉親のそ

れぞれがーー兄や母親や父親が見せた悲しい姿にあるように思

う。つまり、人間の死をテーマとする場合、多くは死者そのも

のに焦点がむけられ、そこから死者をとりまく肉親たちの姿が

類推されてくる、といった仕方をするのが一般であるが、中也

の場合はその逆をいっているわけである。中也の眼は子供の急

な死を見、子供の死を眼の中に入れたまま、視線は移されて、

死をとりまく肉親たちの姿にむけられてゆく。やがて、「電報

打ちに行った」兄の姿が鮮かな相貌をもって写し出され、母親

や父親の姿、更には、子供の手から飛び去っていった雀の姿が

写し出されるにつれて、子供の急な死が深い色あいをもって、

改めて認識されてくる。

 しかも死者への認識と追憶は、同時に、生きて残った者たち

への配慮という形をとって再び現われ、両者は限りなく循環し

てゆく。いわば死者と生者とは等価なものとして見据えられて

おり、そのことがこの作品の感動を深いものにしているように

私には思われる。











以下、その3に続きます。







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