SSブログ

石原吉郎書附け 一 点燭 (その1) [評論 等]





   石原吉郎書附け


 一 点燭


 一人の詩人の発育史に於て、とりわけ、彼と詩との出

会い、彼における詩の発祥と詩的出発のしざまは、注意

してみられる必要がある。一般にそう言えるわけだが、

石原氏の場合には、それはほとんど決定的、根源的な意

味を持っていた。詩的覚醒の時点ですでに、石原氏が詩

を通して明らかにすべき世界は、明確に予感され自覚さ

れていたとみてさしつかえない。



   燭を点ずることが 儀式の拡充である時期をここ

  に終る。あきらかに燭の意味が終るのは それが点

  ぜられるときである。すでに点燭をもって いかな

  る意味の端緒ともなくことなく 点燭をしてそれ自

  身の無意味さの故に その位置で佇立させることは

  もはや儀式の日の倫理である。たとえ点燭とともに

  ひとつの暗黒が終ろうとも われらに終りを告げた

  のは 点燭であって暗黒でなく たとえ燭から燭へ

  重ねて灯(ひ)を継ぐことがあるにせよ すべて終焉した

  ものを単独に列挙することでしかない。たとえば燭

  へ引き継いで行く夜明けのようなものが やがて華

  麗な合唱へ立ちのぼることがあるにせよ われらに

  とってそれは点燭の終了である。点燭をしてかなら

  ず序曲たらしめるな。蝋涙は垂れるにまかせ われ

  らは鐘鳴のようにここに立つ。いわばこの位置のみ

  が儀式の倫理である。われらものごとの始まるや終

  るその位置から他へついに出ていくことはない。



 これは「点燭」と題する作品であるが、ここに語られ

ていることがらは、これをそのまま、石原氏自身の詩的

営為の上にひき移して考えてみることができる。石原氏

にとって詩とは何かが、ここに簡潔適確に語られている

とみられるのである。四周の「暗黒」が点燭を必然たら

しめたように、石原氏をとり囲んだ状況が、石原氏の詩

的覚醒・詩的点燭を必然たらしめた。燭が点ぜられる為

には、点燭を必要とする「暗黒」が存在していなければ

ならず、しかも「暗黒」の存在についての自覚が、燭を

点ずる者の主体に於て明確でなければならない。更に、

点燭によって「暗黒」の実体を明らめ、「暗黒」の中に

見失われた何物かを奪回しようとする意志がなくてはな

らない。そのようにして点ぜられた時に、燭は、「いか

なる意味の端緒ともな」らず、「あきらかに」燭それ自

身の「意味」を獲得することになる。













以下、その2へ続きます。

 『石原吉郎詩集』 思潮社より



nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。