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井戸 [詩]





   井戸



魂は涸れることのない井戸だ

人は めいめいのまぶたの裏側に

つめたい井戸を持っている



のぞくと眼のむこうに

人は ただ深いばかりだ

だがその深さが井戸の深さなのだ

手をつるべのように垂直にたらして

井戸の底から水を汲む



空をきって小鳥が墜ちてゆく

しばらくして遠くから

低い水の音が響いてくる

だれかのまぶたの裏側の

井戸水の音だ



ぼくらの耳はかわいているのに

なぜ 人の奥で溺れて死んでゆく小鳥のはば

 たきや

水の音がきこえてくるのだろう

なぜ ぼくらのまぶたの裏側に

小鳥の死体が流れつくのだろう



ぼくらのまぶたの裏側にも井戸があるからだ

その井戸にも水が深いからだ

そしてどこかで水は一つになっているからだ



眼の前に立っていた人影が立ち去ったあとも

ぼくらのまぶたの裏側にだけは

なぜ いつまでも人の姿はあざやかに

立ちつずけているのだろう

その者の眼や その眼が見たという

ぼくらの知らない海までもあざやかに



その人影も まぶたの裏側に井戸を持ってい

 たからだ

井戸を持ったまま

ぼくらの井戸のふちにまで素足でおりてきた

 からだ

そして水をこぼしていったからだ

ぼくらのまぶたの裏側にまだその水がにじん

 でいるからだ



人と人とがむかいあう

井戸と井戸とが

それぞれの深さを保ったままむかいあう

やがて見えない一筋の橋を渡って

人の中から人影が

水を汲みに こちらの井戸へおりてくる

こちらの中から相手の井戸の深みへ

人影が音もなくおりてゆく

そしていつのまにか

たがいの井戸に水が往き来しはじめる



ぼくらがまぶたの裏側に沈めている深い井戸

ぼくらはすべてのものを すべてのことばを

いったんその深みにひたし

水にくぐらせてさらし

そうしてそこから汲みあげる

すべてのものは ぼくらの井戸を通って

はじめて確実な存在となる



ぼくらは疲れた手を 深夜

深い井戸の上にそっと置いたまま 眠りにゆ

 く

手の下で 井戸は

夜どうしかすかにふるえながら水を深め

やがて来る夜明けのイメージを用意している



井戸はそうして

深まりながら 涸れることなく

人々によって持ちはこばれ

まだこの世に現われない

しかしやがて生命を得るであろう者たちのま

 ぶたの裏側へと

うけつがれてゆく

絶えることのない人間の歴史のような












 「現代詩手帖」 1962(S37)年 9月号



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