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石垣りん詩集『表札など』など   (その6)   [評論 等]





 中村光行氏は「解説」の中で、山田氏の詩

について適切に書いている。

 「かれの仕事が面白くないときは、かれの

詩が先に述べた方法を図式的に追っていると

きだ。かれの魅力の真価が発揮される仕事

は、図式から逸脱して来たときのみにあると

いえよう。逸脱して生じるほころびのような

もの、そのこわれかかったものが、本能のい

となみが、かれを支えている。」

 中村氏がここで指摘している「方法」とは

次のことを言う。「かれは自己のなかに他者

の生きかたを視、他者像のなかに自己の生き

かたを視ようとする弁証法的な方法」であ

る。中村氏は図式云々を、この詩人自身のい

わば内面的問題として指摘しているわけだ

が、私はそれをもう少しひろげて、現代詩の

流行的な図式性という風にも考えたく思う。

つまりそういう図式性から逸脱して生じたほ

ころびのようなものに、山田氏の詩のねうち

はあるように思う。

 もう一つ、山田氏の詩的表現には細心の注

意がはらわれており、イメージの展開は鮮明

であることを記しておきたい。例えば次のよ

うな詩がある。



   飾窓



 私は店をもっている 店といっても仕入商

品はない ただ私の持っているものを並べた

だけの 粗末なものだ 客はめったに来ない

 時には私が客になりすます

 飾窓には奇態な器が並べてあり 器には

心なども入れてある むろん色とりどりであ

る 私がガラスに近づくと 中からも私が近

よってきて私の心をのぞきこむ あまりよい

感じはない 眺めるだけ眺めて 立ち去ろう

とする

 あ 私の店なのだ 振り返ると 向うでも

振りむいてこっちを見る 何だか見すかされ

たようで しゃくだから やはり客のつもり

ではいってゆく すると入れちがいに 私そ

っくりの男が出てくる 包みなど大事そうに

抱えこんで

            (「飾窓」部分)











 「詩学」 1969(S44)年 1月号



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