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片岡文雄詩集『悪霊』など   (その1) [評論 等]





   片岡文雄詩集『悪霊』など



 片岡の第五詩集であり、三十二篇の詩が収

められている。片岡は「著者覚書」の中で、

自分の詩の拠って立つ基盤について次のよう

に書いている。「詩においても、もはや個の

問題・<わたし>をめぐる発想は無意味とさ

れている。詩は文明をもっともよく写し出す

鏡である、という恍惚の論理をもってすれば

それは当然導き出される感想であった。だが

文明は<わたし>を鏡としてしかみえてこな

い。そして動いてはこないものである。この

さりげなく、また正当な認識にたてば、われ

われの感受の世界をもっとも良質のものとし

て典型し得るのは、<我>への偏執という反

時代的な行為である。その偏執を生きる悪霊

とは、まずこのわたしでなければならなかっ

た。」

 詩に関するこのような認識は決して目新し

いものではない。むしろ片岡自身も言うよう

に「さりげなく、また正当な認識」というこ

とができる。だが「もはや個の問題・<わた

し>をめぐる発想」を「無意味」とする一般

的風潮の中で、「<我>への偏執という半時

代的な行為」に生きることを、自己の詩の根

幹として掲げることは、詩や文明に関する片

岡の洞察の深さを示していると言えるだろ

う。このような発言そのものに、すでに、片

岡の強固な<我>が主張されている。「文明

は<わたし>を鏡としてしかみえてこない。

そして動いてはこない」というところが肝要

なのである。文明の鏡たり得、文明を動かし

得るものとしての<わたし>の確立こそが最

も肝要なのであり、そのための弛みない自己

追究と自己批判こそが問題なのである。<わ

たし>の確立と、それにむかっての努力がな

く、あるいは脆弱な<わたし>しか持ち合わ

せていず、従って<わたし>に深くかかわる

ことのない詩が、どうして文明の鏡たり得よ

うか。片岡はそう言っているのである。「詩

は文明をもっともよく写し出す鏡である」こ

とを片岡は否定しているのではない。むしろ

その逆だろう。ただそれを「恍惚の論理」と

して、恍惚の内に解消してしまう気のきいた

近代風を、批判しているのであり、片岡の念

願は、「<我>への偏執」を通して、確かな

<わたし>、文明をもっともよく写し出す鏡

としての<わたし>を確立し、そのことによ

って文明を明らかに見きわめようとする点に

ある。










以下、その2へ続きます。

 「詩学」 1969(S44)年 4月号



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