片岡文雄詩集『悪霊』など (その2) [評論 等]
片岡は第一詩集『帰巣』(一九五七年刊)
の頃からすでにこのような態度を持ってい
た。そして<わたし>についての手さぐりは
とりわけ第三詩集『眼の叫び』(一九六一年
刊)あたりから次第に質的に変化しだし、幅
をひろげ、深められていったように私は考え
ている。片岡は<わたし>を手さぐりするな
かで、本当に<わたし>の実体を究め、確立
するために、おのれの血脈をたどり、「先
祖」へと遡ぼらざるを得ないという認識に達
したようだ。彼は、土俗性とでも名づけべき
ものに深くかかわりながら、独自の詩世界を
展開していった。おのれの生き死にを究めつ
づける途上で、どうしても避けることのでき
ぬものとして、民俗的なもの土俗的なものに
かかわらざるを得なかったと言うべきだろう
か。片岡は民間信仰や民族的伝説、習慣のた
ぐい、あるいは迷信の類にさえ眼をむけてい
った。そしてそれらを培った民衆の魂や知慧
を掘りおこし、詩に結晶させていった。そう
いう営みを通して、強固な<我>を築いてい
った。片岡の詩に一貫してみられる血のぬく
みのようなもの、かつて嶋岡 晨が「鉄筋コン
クリートのような片岡のヒューマニズム」と
評した彼のあたたかさは、右のような態度に
深くかかわっている。
以下、その3へ続きます。
2015-09-06 21:40
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