片岡文雄詩集『悪霊』など (その3) [評論 等]
母
母は鶴の精ではないが
きょうも奥まった板の間で
裁板にきものをぬいつける
眉の濃い生霊は上半身をうかべ
かげりのある雲を地上にぬいつける
螢光灯のひかりにてらしだされ
母はたんねんにぬいつける
きものを頼みに来るおんなのむこうに
あらそいがあり死がある
川がながれ日がきらきらする
それをもれなくぬいつける
(部分)
ここにうたわれた「母」は、とりもなさ
ず詩人片岡自身なのだ。かくして片岡は、
「旧街道・幅六尺にみたぬ道は/せんだん・榎
の枝をくぐり/汽車の鉄橋の上手で消えてい
る」「わが集落」(「旧街道・わが集落」)
を彼の魂に「ぬいつけ」、「それほどとおく
ない昔/ここをすぎ西にむかった旅人は/た
れひとり霊の姿して帰ってはこなかった」
(同)事実を「ぬいつけ」、「朽ち葉いろの
顔をもつ何代ものひとらの/その手ぶりや声
とともにこごえてうまれた石を/わたしはて
のひらのにはかり/落してはその音をき」き
(「仁淀川」)、「石ころのこの地底に ひと
の知恵は/伏流する水としてほろびてしまっ
たのか/くらしにかぎりなくわかたれて/みえ
ないのかも知れぬ」(同)それら「ひとの知
恵」や「ひとの知恵をきたえたゆびさき」を
たずねていくのである。そうして片岡は、「見
ることからさわることへ/世界をひきよせ」
(「蝸牛抄」)ながら、誠実に<わたし>を
生きようとしている。次の詩は、片岡のそう
いう生き方をよく表しているだろう。
以下、その4へ続きます。
2015-09-08 19:24
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