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片岡文雄詩集『悪霊』など   (その7) [評論 等]





 寺門氏は遊女の姿に人間実存の一つの典型

を見ようとしている。寺門氏の詩には総じて

遊女に対するいつくしみと哀しみの想いがた

だよっているが、しかしそれは遊女という境

涯に生きた女たちに対する世俗的な憐憫の情

とは質的に異なっている。遊女を通して洞察

された人間の「生」あるいは実存に対する根

源的な思考から生じきたったもののようであ

る。

 私には寺門氏 「遊女」は、寺門氏自身の

情念と思念の権化であるように思われる。集

中に書き連ねられた「遊女」の劇は、とりも

なおさず寺門氏の心中の劇に他ならず、彼の

心中に明滅する情念と思念の姿に他ならな

い。「遊女」は寺門氏に去来するいわばオル

フォイスの如きものであろうか。そういう意

味では、「遊女」は寺門氏の思念ないし情念

を表白するための一つの衣装であり、一つの

方便であり沪過装置であると言うことが出来

るだろう。寺門氏は一貫して「遊女」をうた

い続けているが、しかし彼の詩のすべてが

「遊女」に直接触発されて発想されたもので

はないように思われる。むしろ寺門氏は、彼

が見、感受し、発想したテーマを形象化する

ための具体的な手だてとして、「遊女」とい

う媒体ないし鋳型を選びとってくる。つまる

ところ、「遊女」とは寺門氏のポエジイを整

え精錬する為のノミであり鉋であり、ノミや

鉋によって整えられた衣装であると言えるだ

ろう。衣装は時により所によりきらびやかな

ものから簡素なものへ、破れたものから繕わ

れたものへと、様々に変化するが、衣装の変

化ほどには衣装の内にある実体は変化し深化

してはいないのではないか、という疑念をも

私は持っている。一作一作と書きつぐにつれ

て「遊女」の劇が深められていくということ

がなく、同じ次元に立ちつづけながら衣装だ

けを多様に変化させている、という点がある

ように思われる。「遊女」という衣装を脱ぎ

捨てることも、今の寺門氏には必要なことで

はないかと思う。すでに遊女の類型のきざし

が私には感じとられる。











 「詩学」 1969(S44)年 4月号



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