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詩集『幻影哀歌』など   (その6) [評論 等]





 日登氏は自分の感受性をたよりにして、自

己の内に流れこんでくるすべてのものを濾過

し、現像液にひたしてゆすぎ出し定着させて

いる。選別し判別するいとまもなく、魂が捉

えた一切のものを自分の流儀でうたっている

ようである。自己の世界と外界とのけじめが

なく、両者はわかちがたく統一され、共に交

感しあっており、したがって外界の事象をう

たうことがそのまま自己をうたうことにつな

がり、自己をうたうことがそのまま外界の事

象をうたうことになる、という具合である。

 「女の体はガラスのようで/家々のむこう

の消えかかった夕焼けが/彼女の血ででもあ

るかのように滲んでいる」<恋の終り>

 あたかもこの詩句は、右にみた日登氏の詩

世界の特徴を端的に語っているようである。

そして内の世界と外の世界との絶えざる交感

と交流が、日登氏の詩に透明さと翳りを与え

ていると共に、言うに言われぬ優しさと、優

しさの底にひそむ一種の憂愁や不在感をも与

えている。











以下、その7へ続きます。



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