詩集『幻影哀歌』など (その6) [評論 等]
日登氏は自分の感受性をたよりにして、自
己の内に流れこんでくるすべてのものを濾過
し、現像液にひたしてゆすぎ出し定着させて
いる。選別し判別するいとまもなく、魂が捉
えた一切のものを自分の流儀でうたっている
ようである。自己の世界と外界とのけじめが
なく、両者はわかちがたく統一され、共に交
感しあっており、したがって外界の事象をう
たうことがそのまま自己をうたうことにつな
がり、自己をうたうことがそのまま外界の事
象をうたうことになる、という具合である。
「女の体はガラスのようで/家々のむこう
の消えかかった夕焼けが/彼女の血ででもあ
るかのように滲んでいる」<恋の終り>
あたかもこの詩句は、右にみた日登氏の詩
世界の特徴を端的に語っているようである。
そして内の世界と外の世界との絶えざる交感
と交流が、日登氏の詩に透明さと翳りを与え
ていると共に、言うに言われぬ優しさと、優
しさの底にひそむ一種の憂愁や不在感をも与
えている。
以下、その7へ続きます。
2015-10-25 20:20
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