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鳥見迅彦詩集『なだれみち』など  (その1) [評論 等]





    鳥見迅彦詩集『なだれみち』など



 詩集『なだれみち』は『けものみち』に次

ぐ鳥見氏の第二詩集である。『けものみち』

上梓(一九五五年)以後一四年間に制作され

た「『山』にかかわりのある詩だけ八十九篇」

(あとがき)がここに収録されている。

 『けものみち』に於て鳥見氏は、総じてけ

ものたちの様々な姿を寓意的に捉えつつ、人

間批評、文明批評、社会批評等の諸批評を試

みた。『けものみち』を読み返してみて、そ

こにもられた批評性が今日もなお色褪せずに

いることを私は確認したが、このことは、鳥

見氏の作品がとりもなおさず自己追究や自己

批評の一点に凝集され、その根源的な地点か

ら発想されていることによっているだろう。





 とびあがり

 とびあがり

 落ちて

 ちゅうちゅうとないて

 上を見ている

 自分を

 見た





   (「罠」部分)





 おれ自身にむかっておれが遠吠えしている





    (「疥癬の時間」部分)





 こっちをむいて立っている

 おまえは誰だ?

 というおまえこそいったい誰だ?





    (「おまえは誰だ」部分)





 つまり例えば、落ちつずける自己の中に、

落下に逆らって「上を見ている」「自分」を

保ちつずけており、しかもそのような「自分」

のいることを見つずけている自己を鳥見氏は

ちゃんとわきまえている。「おれ自身にむか

っておれが遠吠えしている」という場合も、

「おまえは誰だ?/というおまえこそいった

い誰だ?」という場合も、そこには際限を知

らぬ自己凝視と自己懐疑があるわけである。

際限を知らぬ自己凝視と自己懐疑は、いきお

い自虐性な色あいを深めていきがちだが、鳥

見氏の場合も例外ではなかった。一般に自虐

性は往々にして、自己瞞着や安易な自己陶酔

におちいりがちだが、本来それは高い倫理性

への志向を内に孕んでいるものである。自己

を加虐者の立場に置くと共に、同時に被虐者

の立場にも据え、その両極から自己をせめぎ

つずけ、そのような営みの中から加虐者・被

虐者のいずれにもくみせぬ自己を検証し、確

立していこうという願いを内に孕んでいる。

そのような自己によって、世界を、物の価値

をつぶさに見ようとする積極的な姿勢をひそ

めている。「『けものみち』とは深い山の中を

ゆききするけものたちのひそかな踏跡のこと

であるが、ここでは人間の行路を暗示する一

つの隠喩として藉りた。」(『けものみち』あ

とがき)という言葉も、右にみたような事柄

を裏づけとして読むべきだろうと私は考える

し、自虐性を媒介とした高い倫理性への志向

が、鳥見氏に「野うさぎ」のような作品を書

かせたのであっただろう。

 『けものみち』にみられるこのような性格

は、『なだれみち』にも通じている。











以下、その2へ続きます。

 「詩学」 1969(S44)年 8月号



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