鳥見迅彦詩集『なだれみち』など (その3) [評論 等]
岩壁の中途のななめにかしいだ空間で
半分はまるで無抵抗の世界にのめりこみながら
自分を縛り、そして自分を
そこに吊るし
(略)
危険と後悔とのアンバランス。
誤算と願望との葛藤。
たえまなくゆれながら
自分をゆるし、自分を罰する、凄惨な夜
ーー「遠い夜」部分
もし下が深い谷でなかったら
自分が人間でなかったら
こんなはずかしい命乞いを
こんな醜いかっこうで、することはないだろう。
ーー「谷」部分
深い谷を下にのぞむ位置に居るという事実
は、しかし、登攀者としての或いは自己探求
者としての鳥見氏の意図的行為の所産なの
だ。自ら求めてそこへと自分を追い込んだの
であった。そして「もし下が深い谷でなかっ
たら」登攀それ自体が成立しない。その限り
に於て「もし……」という前提は実現不可能
な事である。鳥見氏は、自ら「自分を縛
り、そして自分を/そこに吊る」す、いわば
そのような「いやな位置」に自分を追い込む
ことによって、危険と後悔のアンバランス
状態に自分を立たしめ、誤算と願望との葛藤
を通じて「自分をゆるし、自分を罰し」、か
くして自己を検証しようとしているのであ
る。
自己検証と自己確立への努力を基軸にし
て、鳥見氏は、「両眼を/ひらき、もういち
ど/人間へ戻」ろう(「岩と残雪のあいだ」)
としているのであり、そのためにこそ「こん
な醜いかっこう」や「関節の痛い身じろぎ。
くるしい嘔吐」を自ら選んだのである。「自
分が人間でなかったら」という述懐の内側に
はそのような経緯がひそめらえている。
「なだれみち」即ち崩壊の危険に自己の存
在をさらし、さらすことによって逆に自己を
支えようとしているのである。崩壊から自己
の人格を救うためには、自らを崩壊にさらす
以外にない、というのが鳥見氏の信条のよう
である。
自虐性は、自己を加虐者の立場に置くと同
時に、被虐者の立場にも立たしめるものであ
る、と私は書いたが、『けものみち』の場合
には、被虐者つまり弱者としてのけものたち
の側に身を置くことによって、被虐者として
の自己及び人間の行為を糾弾するという傾向
が、どちらかと言えば強かった。いわばけも
のたちに仮託して自己批評を試みたわけであ
る。それに対して『なだれみち』の場合に
は、直接自己自身を或いは自己の行為を糾弾
の対象としている。登攀は自己征服の為の、
つまり自分自身にむかっての登攀なのであ
る。その意味で鳥見氏の自己批評は一層深め
られたと言えるだろう。
以下、その4へ続きます。
2016-02-16 21:23
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