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鳥見迅彦詩集『なだれみち』など  (その4) [評論 等]





 私が氏の第二、第三作品群として区分し

たものに見られる愛やエロチシズムも、一種

の明澄さも、結局は自己糾弾を自虐性の上に

得られたものーー「ぼく自身の孤独を遡行し

て」(探鳥行)得られ、「越えるべきものを

越え、帰るべきところへ帰ってきた」(小梨

平の」)ことによって得られたものである。

いわばそれとは、死に直面した遭難者が生還

の機を得、そうして改めて人間や自己の存

在、生きる意味について新たな発見をしてい

ったのに似ている。





 クララは藪にかくれる。

 草を踏む音が遠くなってゆき、やがて止む。

 そしてクララはけものに変身する。

 山中はしんとなる。

 ヤマバトが鳴く、

 ウグイスが鳴く。

 クララが藪から出てくる、

 すこし顔をあからめて。

 優雅なしなをつくって。

 けれどもクララはまだ半分はけものだ。



     ーー「白いけもの」部分ーー





 だが第二、第三の作品群に見られる平安

は、安易な日常性におちこむ危険性を孕んで

いるし、登攀行為が習慣化する危険を孕んで

いる。





 「たのむぜ」「いいとも」

 岩と空のあいだで交わす、きみらの

 合言葉はぶっきらぼうで簡単だ。

 霧と太陽が揉みあう空間を

 ひたすらにさかのぼる、きみらのゆめはいつもながら清澄だ。



      (略)



 踏破の成功を告げるコーヒーがN谷を横切ってエコーを返すとき

 みちたりてほころぶきみらの微笑は純潔無比だ。



                              ーー「登攀者」部分





 登攀者たちの「ゆめ」が清澄であり、微笑

みが「純潔無比」であることを私は疑わぬ

が、しかしこの作品はどこか本質的な点でひ

弱である。「純潔無比」が鋭角的な批評から

離れた地点でうたわれ、手放しのまま投げ出

されているように思えてならない。

 私は「山小屋への道のり」が、鳥見氏にと

ってどこまでも「罰のようにつずいている」

ものであってほしいと思う。「ようやくここ

までのぼってまいりました。/やすらぎのな

いこころは、けれども、出発のときとおなじ

でございます。」(「峠」)という、「出発のと

きとおなじ」「こころ」をもって、「すべて

を疑い/すべてをたしかめ/すべてを信じて

/難関と各地とのあいだをまさぐ」(「十分の

指のゆび」)りつずけることが、自己登攀者

としての鳥見氏にふさわしいことだと思う。











以下、その5へ続きます。

 習慣化する危険を孕んでいを。をいる、と思われるので変更しました。



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