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二冊の詩集   (その6) [評論 等]





 もう一つの不満を私はこの際述べておきた

い。それは例えば次のような表現に対して持

つ不満であり、これらの表現の裏にひそむ陳

腐な思考に対するものである。





 死を孕まないなにか もしそういう存在が ある

 とすれば それは もはや死ぬこともないが生き

 ることもないのだ



             ーー「日の闇・おまえに」部分





 在るということがかたちをもつことであれば「き

  ょう」はない

 けれども「きょう」は確かに在るというものより

  も在る

 在るということのふたしかさのゆえにさらにはげ

  しく在る



                  ーー「日の歌」部分





 「死を孕まない」云々に関して言えば、こ

こには物についての新たな発見がない。詩以

前の日常的認識に於てさえ至極あたりまえの

ことだ。あたりまえなものに眼をむけること

は、決して悪いことではない。しかしあたり

まえなものの中からさえ、新たな真実をひき

出し発見してくるのでなければ、詩にはなら

ない。「在るということのふたしかさのゆえ

にされにはげしく在る」という認識について

言えば、「在るということのふたしかさのゆ

えに」どうして「はげしく在る」ということ

になるのか私には理解出来ない。われわれは

詩人の眼をもって「ふたしか」なものの一切

を「たしか」なものにしなければならない。

「ふたしか」なままで(ましてやそれが要因

となって)物が「さらにはげしく在る」など

ということは決してないのである。先に引用

した「幻影」の中で、金丸氏自身、自分の片

側を擦過する「血だらけの負傷兵」を確かに

見たように、すべての物をわれわれは確かに

見なければならない。











 「詩学」 1969(S44)年 9月号











 以下、続きます。お待ちください。



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