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現代的と伝統的   (その4) [評論 等]





 深沢忠孝詩集「溶岩台地」(思潮社刊)





 浪振り 浪切る比札ふりて

 風振り 浪切る比札ふりて

 奥津鏡 辺津鏡に祈り

 渡り来し人々の記憶

 ことごとく奮いし王権の祭式



      (「伊豆志袁登売」冒頭)





 この作品のはじめには「天之日矛持渡来物

者、王津宝云而、珠二貫。……云々」という

「応神記」の一節が引用されている。一体、

現代に生きる私達がこのような言葉を用いて

表現しなければならない必然性がどこにあろ

うか。私は怠惰であるけれども一応は国文学

を専攻してきたし、現在も古文に触れる機会

は比較的多い。しかし右の言葉を十全に理解

することができない。概要はわかっても生き

たもの魂のかよいあうものとしては理解でき

ない。現代詩が一々注解を必要としたりある

いは一部の専門家や知識人に理解されるだけ

でよいわけはなく、そうである以上言葉は誰

にでもわかるものである方がいい。だいいち

作者自身原典に依拠したり調べたりして、こ

ういう表現を手に入れるのだろう。そうだと

すれば自己の感動と表現との間にすき間が生

ずる。

 深沢氏にしても三井氏にしても、伝統的な

ものへの志向、それの再確認及び伝統の正し

い継承と発展にこそ願目があるのであろう。

そのことは正しい。しかし伝統の継承とはこ

のようなものであろうか。あっていいだろう

か。言葉の問題に即して言えば、このような

言語表現を必然としたその時々の民族の血や

汗や涙や笑いそのもの、つまり言葉の内実を

みたしている生活感情や思考にこそ眼をむけ

それを批判的に継承すべきであろう。それは

古語の援用によらずとも、現代語によって充

分になし得る。

 深沢氏の作品のうち右のような作品はむし

ろ例外的なものであって、総じてこの詩集に

収録された作品は優れている。「独楽」「雨」

「上高地で」「稜線で」「溶岩台地」「野うさ

ぎ(1)」「同(2)」「春」「蝶」「列車」「埋葬」「仔

うさぎ」等の作品には、作者のものを見る眼

の深さが感じられ、作者の魂は美しく澄んで

いる。





   蝶



 その稲妻型のとびかたに ぼくは

 賛成しかねる

 それが神の摂理だ としても

 青い風吹く廃墟で

 ぼくの背丈ほどしか舞いあがらない

 開ききらない花に

 重たげに羽を休めて

 やがて
 
 もとの方角に悄れていく

 蝶





 深沢氏は「あとがき」で「最近の関心が古

代から日本の心、妣の国(・・・)へと向っている」と

書いているが、深沢氏の日本の心は、右に挙げ

た作品や次のような詩句の中でこそ質高く

結実するのではないか。





 ざざんぼう ざざんぼう

 父や母もそうだったーー同じく こうして雨にうたれて

 歴史の向うから 孤独を

 背負ってやってきたにちがいない



                 (「雨」部分)











 以下、その5へ続きます。



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