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あたたかさ・純粋さ   (その2) [評論 等]





    母



 ながいながい病気のとき かあちゃんはあたい

 にしょっちゅう言うた とうちゃんの言うこと

 よおく聞くんやで あたいが二年生になって

 桜の花が散るように かあちゃんは死んだ あ

 たいの手えとって 杏子 かあちゃんおらんか

 て 淋しがらんと気丈夫にもって とうちゃん

 の言うようにすんのやで あたらしいかあちゃ

 ん来たかて おかあちゃん おかあちゃん 言

 うて可愛がられるんやで



  しろい箱に入って
  
  おかあちゃんがゆく





 ここにうたわれている「おかあちゃん」は

次の詩に見られる「おかちゃん」のイメージ

に重なり、おそらくそのような女の生涯を生

きてきたのであろう。





 おかちゃんは明治四十三年九月二十日に生まれた

 農家の女ばかりの三人の二番目であった

 おかちゃんは両親の願いもむなしく

 片目で生れた

 両親は不便を感じたが仕方のないことであった

 おかちゃんは汽車にのった

 おかちゃんはかなしい汽車にのって走る

 ポッポーと一人ぼっちで走る

 レールはきまって一本しかない

 さびしい風景をみいみい走る



          (「おかちゃん」部分)





 これらの詩に限らず、土屋氏は博労や老婆

や屠殺される牛、乞食、老いた母、子供達、

びっこのハト、百姓、片目の女、盲目の子

供、労働者といったたぐいの人々を、ほとん

どこれらの人々だけをうたっている。しかも

そこには、政治的・思想的観点からして無理

にもこれらの人々をうたおう、うたわねばな

らないとするような作為的態度はみられな

い。これらの人々に対するいつくしみは、ほ

とんど土屋氏の生得のものであるように思わ

れる。生得のものであることはしかし、人間把

握、人間理解に於ける氏の無思想を意味しな

いし、人間把握に於ける土屋氏の政治的・社

会的な無自覚ないしは無関心を意味しない。

むしろ土屋氏は自分の生いたちや環境とのか

かわりの中で、人間に関する社会的・政治的

関心を次第に深めていき、深めていく経過で

生得の感受性はその本来的な姿をいよいよ明

らかにしていった、とみるべきだろうと私は思う。

 繰り返して言えば、土屋氏の作品に現われ

る人間は、例外なく貧しく、不幸であり、そ

の生き方は平凡である。そして土屋氏の彼ら

を捉える捉え方は、見かけ上決して政治的で

も階級的でもない。しかし氏の作品が私達の

心にもたらす感銘は、これらの人々のありよ

うや生き方を深く考えさせ、考えさせること

を通じて、究極に於て私達の関心を政治の問

題や社会の問題にむかわせるのである。例え

ば、





個としての各人が抱きこんでいる現実

の状況といったものも、各人によって異なる

ものであるから、自らが自らを変革していか

ねばならないということである。自ら始める

ということは、自己に還元していく消極的な

ものでなく、対他者に対して攻撃性を持った

自己変革が必要である。それは言葉の衝撃に

よる自己意識の変革である。



          (御沢昌弘詩集「胎児」あとがき)





、といった類の「思考」

が、書き手の主観に於ていかに「意識」的で

あり「衝撃」的であろうと、所詮は、生きた

「現実の状況」から遊離した地点で行われる

観念の中だけの操作であり、「言葉」による

こしらえものであることによって、私達の心

に定着することができないのとは反対に、土

屋氏の作品に現れる人間たちは私達の心に

永く住みつき、私達をしてそれぞれの自己変

革へと地道にむかわせる。











 以下、その3へ続きます。



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