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地図(或るメモランダム) [詩]





   地図(或るメモランダム)



 僕はどう考えてみても、僕が今通ってきた街が実在の

街のようには思えない。別の、まったく別の世界を歩い

てきたように思われる。

 一体、僕らが何の気なしに話題にのせる共通の「街」

あるいは疑いもなく「在る」と思っている「街」は、僕

らが信じているようなものとしてそこに「在る」のかど

うかすこぶる疑わしいものだと思う。共通の「街」を話

しながら、その時、話している者達はそれぞれ全く別の

「街」を話し、別々の世界へ出発しているのだ。

 僕は今、人影の全くないひっそりした通りを通ってき

た。けれども実際は人通りがあったに違いないと思われ

る。僕には見えなかっただけかも知れない。僕にはただ、

そこを通っていた人々の誰もが、同じその「街」を通り

ながらしかし実はそれぞれめいめいの街、僕が通ってき

た「街」とも違う全く別のそのものだけの世界を、その

時通っていたとしか思えない。僕にとっては乾いた路だ

ったが、或る者にとってはそれは濡れた路、水たまりに

空が映っている路なのだ。

 つまり僕が通ってきたのは僕だけの「その街」だった

のだ。だからそこを通ってきた僕には、いかに人通りが

あったとしても、その通りは人影が全くなく、ひっそり

していたという記憶しか残っていない。

 涼しい初夏の陰の中に立っている電話ボックスの傍を

通る時、そこへ入っていった者はもう再び同じ姿では出

てくることがないような不安に、僕はしばしばおそわれ

る。そして事実、僕は電話ボックスの外で長い時間辛抱

強く待ってみたが、彼はとうとう出てはこなかった。僕

不安になってガラス越しにボックスの中をのぞいて見

たが、入った筈の彼はすでにそこにはいなかった。中は

がらんとしていた。

僕の探索心は彼の行方を、彼が入っていった世界をつ

きとめようとした。僕は受話機をはずし、彼を呼び出

そうと努めた。しかし何度やり直しても呼び出すこと

が出来たのは僕の世界でしかなかった。



 僕は今、街を通りぬけたはずれに在るコーヒー店の

片隅に腰をおろし、通ってきたばかりの街を眺めてい

る。透きとおるガラス戸をとおしてここから見る街は、

ひっそりと全体の形を整えている。そしてにぎやかな

人通りが見え、かえって、実際はここまで聞こえてく

るはずのない話し声や笑い声などが手にとるようにき

こえてくる気がする。

 けれども再びその街の中へ入っていくと、その街は

もう「その街」でなくなり、人声も笑い声も消えた音

のない僕だけの世界に変るのだ。街角はどのような意

味に於ても静止した街角としても、限定された距離と

しても、もはやそこにはない。それは際限もなく奥深

い世界の入口として立っているのだ。そこを通り過ぎる

人々によってどのような距離にも、どのような広さに

も変容するのだ。

 だから僕には、それが例えどんなに小さな街であって

も、一生かかってなお歩きつくせないということがあっ

てもいいと思えるし、また、そこへ入って行った者が一

日中待ってみても帰ってこないといったことがあっても

決して不思議なことであるとは思えない。僕らは連れだ

って歩いていた者が、突然見えなくなってしまったとい

う経験さえ持ち合わせている。

 彼は長い石塀に沿って歩いているうちにか、街角を曲

るひょうしに吹いてきたそよ風によってかは知らず、と

もかくもそこから深い世界へ入って行って姿を消したの

だ。

 彼の世界が深ければ深い程、或いはまた、その街につ

いこの彼の記憶が遠ければ遠い程、彼はその世界から容

易に帰って来ることが不可能になるのだ。





                     (未完)













  「罌粟」第2号 1959年3月20日発行





   
タグ:罌粟 地図
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