SSブログ

現代的と伝統的   (その3) [評論 等]





 この詩集収録の三十一篇の詩はすべて恋情

を直接の主題としている。





 待っていて下さいまし

 わらの草履に付くような火が消えるまで

 燠火を明してせめてはよるが明るむまでを欲しい

 わらの草履に踏むほどはかえす足裏から真直に白むよるを

 ほとほとと踏んでくるまでを。

 待っていて下さいまし

 ひとめあえば赤く火を移すことが出来る

 その火照りのほのあからみにあなたが立って待っていて下さいまし
 
 火が移るまで 

 いまは火が移って燃えるまでを。



                (「火が移るまでを」)





 三井氏の詩に表れた恋情は激しく、むし

ろそれは痴情といったものに近い。「生まの

肉」がうたわれ、「いのちを寄せる」ものと

してまた「追いすがる」ものとしての恋情が

うたわれている。しかしこれらの熾烈な恋情は

性存在にかかわる渡合が深いのにもかかわら

ず、きわめて抽象的思弁的な性格のもののよ

うに思われる。性存在そのものがそもそも抽

象的思弁的性格のものであるわけだが、三井

氏の場合には、これに加えて生の有限性に関

する認識が深い裏うちとなっているためであ

ろう。「はかなし」と観ずる認識をよりしか

と確認する為の手だて、ないしはそのような

認識の仮託として恋情がうたわれていること

にもそれはよっているだろう。あるいはこう

も言える。はかなさを自覚した三井氏は、そ

の自覚に基ずいて逆に生の充溢に対する期待

と欲求を深め、自己の実在感を強固なものに

していった。そして自己の実在を証しするも

のとして恋情にすべてを賭けていった。

 おそらくこの詩集にうたわれている恋情は

作者の観念の具象として顕現されたものであ

って現実のものではなかろう。生の充溢に対

する期待と欲求の大きさに比例して恋情に寄

せる期待も大きく深く、それ深く大きなも

のであれがある程、恋情に寄せた期待は裏切

られる。恋情は悲劇的な相貌を呈する。それ

故に恋情は熾烈でありながら、作者の魂は覚

めている。

 もう一つ私がこれらの作品に感ずることは

ここは表現されている情念なり情感なりが生

じきたった土台としての具体は、意識的に沈

められていてほとんどうわずみのようなもの

のみが表現されていることと、ここにある情

念や情感は、そのほとんどが「ひと息の息の

まに」表白されたものであることである。

「ひと息」に吐かれたことに於てそれは新鮮

であるけれども、しかし息を吐かせたところ

のものの実体は、「魚」「さくら」「ひかる君」

「盃」「火が移るまでを」「らん」「さくら」

等の諸作を除いては必ずしも充分に表現され

ていないし、初めから読者の理解を拒むよう

なわかりにくさがある。

 わかりにくさは、記紀の歌謡風のうたい口

王朝風のみやびやかな用語からもきている。

おそらく三井氏は伝統的世界への回帰を志向

しているのであり、そのための手だての一つ

としてこのようなうたい口や用語を駆使して

いるのだろう。しかし現代にあってはそれら

のほとんどが死語に類する。一般的に言って

そうであり、また氏の作品の具体に即してみ

ても氏自身の言葉としてよみがえっていな

い。近頃、上代語的語法やうたい口を用いた

詩を見かけるが、ひと頃フランス語をナマの

ままやたらに引用していた現象と同様、私は

これを理解することができない。例えば次の

詩集などにもそれが見られる。











 以下、その4に続きます。



現代的と伝統的   (その2) [評論 等]





 三井葉子詩集「夢刺し」(思潮社刊)

 三井氏は、あたかもこのような現代詩の一

般的傾向にさからうようにして、自分の魂の

裸身をうたっている。女としての性のかなし

さ・はかなさを執拗にうたいつずけてい

ると言える。





 雨だれを受けるたびに

 傾むく夢は

 傾むくたびの身の軽さをかなしんでいた。

 ふり腐れてゆくかなしみの

 裾も濡れてゆく

 雨だれのしずくのひとしずくのおもたさを

 わたしは連れてはゆけないけれども

 水の縁を越えるばかりのゆらめく部屋に

 ゆらめいて待つひとのひざのうえまで

 なにを置き残して帰りつく夢のままの世を。





 これは「雨だれ」と題する作品であるが、

「ゆめ」とうつつの境を変幻自在に出入りし

「世」を「夢のままの世」と観じ、そのよう

な「世」にあっては、うつつとして在る「部

屋」も「ひと」も「わたし」も一切が「ゆら

めいて見える、したがって身の「かなし

み」をたぐることを通じてしか、自己の実存

を確かめる手だてはない、とする三井氏の態

度を端的に表している作品のこれは一つと

みてよかろうと思う。三井氏の独特のうたい

口やイメージの色どりもここには備わってい

る。この詩集の冒頭に「赤まんま」と題する

作品があり、そこに次のような詩句がある。

「石段をみえがくれする遮蔽物を越えてはゆ

くと見えるばかりの/赤まんまの咲きがけに

/ひと息の息のまに/赤まんまのはな咲いて

いる。」

 中野重治はその詩「歌」の中で





 お前は歌ふな

 お前は赤ままの花やとんぼの羽根を歌ふな……すべてのひよわなもの

 すべてのうそうそとしたもの

 すべての物憂げなもを撥き去れ……





 とうたい、更に後年この作品

に触れて次のように書いている。「私がそこ

でそれらをかって歌わなかった仕方でうたっ

ているのを見ぬ云々」と。中野の提起した問

題は詳細に検討しなければならないが、三井

氏は「赤まんま」をまさに「ひよわなもの」

「うそうそしたもの」そのものとして、か

っての歌がうたったその内質と歌いぶりに於

て、もう一度うたおうとしている。自己の主

体に於てうたうことによって、ひよわなもの

うそうそとしたものとされたそれらが、確か

にそのようなものでしかありえないかどうか

を確かめようとしている。繰り返して言えば

三井氏は「ひと息の息のまに……はな咲」く

ものとしてそれらをうたおうとしている。

 三井氏はこの作品に於てのみならず「かな

しみ」とか「さびしさ」「ひそとして」「わび

て」「泣き重ねて」「嘆き」「ゆめまぼろし」

「切ない」「あわれ」といった表現をしきり

に用いているが、これらの嘆かいの底にはお

そらく、生の有限性に関する三井氏の認識が

あるのにちがいない。実在の諸相の根源に凋

落のさまを見てとり、すべてを移ろいゆくも

のの姿に於て捉え、はかなしと観ずる認識で

ある。この認識は伝統的なものであり、短歌

をはじめとするわが国の伝統的文芸の底流と

なった思潮であるし、ひと頃「短歌的抒情」

として否定されたものでもあった。それらを

承知の上で、むしろ承知しているが故にかえ

って三井氏はこのような認識に執しつずけて

いるように私には思われる。そしてそこに私

は三井氏のなみなみならぬ現代批判の姿勢

を感じとるのである。











 以下、その3へ続きます。



現代的と伝統的   (その1) [評論 等]





   現代的と伝統的


 詩の原質であり、それ自体として本来自律

し、自己完結すべきはずのうたが、作者の観

念的な饒舌によって敷衍され或る場合には概

念的に記述される。そしてむしろ概念的記述の

部分に詩の批評性なるものを見、そこに重き

を置いて、詩の価値を評価する、といった誤っ

た傾向が次第に醸成されつつあるように思わ

れてならない。つまり詩の散文化が促進され

知らずしらずのうちに私達は、詩の原質たる

うたを水割りしてうすめ、作品の背後にある

沈黙を消し去り、読み手の創造作用を無用と

するまでに記述し尽し説明し尽してしまって

いる。詩がやたらに「情況」だの「告発」だ

の「崩壊感覚」だのといった現代的な借り衣

裳を重ね着し、読み手は現代むきの衣裳

を重ね着し、読み手は現代むきの衣裳のき

らびやかさに眼を奪われるといった有様が一

般化しつつある。詩の裸身は着ぶくれた衣裳

の下でやせ細り、読み手は衣裳模様に目移り

して自分で思考することを停止してしまって

いる。厚着をしている者にどうして現代の

「情況」などが肌を通してじかに感じとれる

だろうか。「告発」は俊敏な知的行為と具体

的な行動・実践を伴う。厚着して身動きなら

なくなっている者に、どうしてそのようなこ

とが実地に出来るだろうか。











 以下、その2へ続きます。

  「詩学」 1969(S44)年 10・11月合併号




 


二冊の詩集   (その6) [評論 等]





 もう一つの不満を私はこの際述べておきた

い。それは例えば次のような表現に対して持

つ不満であり、これらの表現の裏にひそむ陳

腐な思考に対するものである。





 死を孕まないなにか もしそういう存在が ある

 とすれば それは もはや死ぬこともないが生き

 ることもないのだ



             ーー「日の闇・おまえに」部分





 在るということがかたちをもつことであれば「き

  ょう」はない

 けれども「きょう」は確かに在るというものより

  も在る

 在るということのふたしかさのゆえにさらにはげ

  しく在る



                  ーー「日の歌」部分





 「死を孕まない」云々に関して言えば、こ

こには物についての新たな発見がない。詩以

前の日常的認識に於てさえ至極あたりまえの

ことだ。あたりまえなものに眼をむけること

は、決して悪いことではない。しかしあたり

まえなものの中からさえ、新たな真実をひき

出し発見してくるのでなければ、詩にはなら

ない。「在るということのふたしかさのゆえ

にされにはげしく在る」という認識について

言えば、「在るということのふたしかさのゆ

えに」どうして「はげしく在る」ということ

になるのか私には理解出来ない。われわれは

詩人の眼をもって「ふたしか」なものの一切

を「たしか」なものにしなければならない。

「ふたしか」なままで(ましてやそれが要因

となって)物が「さらにはげしく在る」など

ということは決してないのである。先に引用

した「幻影」の中で、金丸氏自身、自分の片

側を擦過する「血だらけの負傷兵」を確かに

見たように、すべての物をわれわれは確かに

見なければならない。











 「詩学」 1969(S44)年 9月号











 以下、続きます。お待ちください。



二冊の詩集   (その5) [評論 等]





 金丸氏の作品には形而上的なものが著しい

のであるが、一方氏の形而上世界は氏特有の

抒情性によって色どられている。そしてその

ことが氏の作品に一種のうるおいを与えてい

るのであるが、しかし氏の抒情性は作品にと

って必ずしもプラスにのみ作用しているので

はない。形而上的主題の追尋を不徹底にさせ

る要因としても働いている。しかし考えてみ

れば、主題追尋における不徹底さの原因は、

必ずしも氏の抒情性そのものにあるのではな

いだろう。むしろそれは対象に対する洞察の

不足、対象の本質把握のあいまいさにかかわ

っているものと言わねばならぬ。対象追尋の

不足を抒情性で補ってしまう安易さに根本の

原因がある。





 樹梢を鳴らす

 風があって

 風には風の底があった

 その広さだけ砂地がのびひろがっていた

 日ぐらしの大乱声のなかを

 日よ

 あおいおまえの

 透明のなかを

 わたしは砂に足をとられながらすすむ

 ここまで来て

 ついに 
  
 「わたし」とはいったい何であったのだろう

 いつもふいにおのれをひろげるおまえに

 小鳥があおぐろい影をおとしてかすめる

 あおざめたわたしのような不遜よ

 わたしはゆえもなく海への広漠をよぎる



             ーー「夏の海」そのⅡ





 「わたしはゆえもなく海への広漠をよぎ

る」という優れた詩句をその一部に持ちなが

ら、この作品は全篇に流れるひ弱な抒情性の

ために「『わたし』とは、いったい何であっ

た」かの追尋をあいまいにしてしまってい

る。言うまでもなく、この作品は「その1」

と併せて読むべきものであるが、紙幅の関係

でここには引用できない。しかし「その1」

を読み併せてみても、私にはこの作品が中途

半端なものに思えるのである。











 以下、その6へ続きます。



二冊の詩集   (その4) [評論 等]





 金丸枡一詩集「默契」(昭森社)

 

 たしかに在って見えない

 かたちのようなものら





 これは「新・お伽噺その1」と題する作品

の冒頭の詩句である。これに類する表現はこ

の詩集のそこここに見られる。例えば次のよ

うな具合である。

 「遠くにあって ない/近くにあって 見

えない」<葉ざくら>「見えないおまえを描

きだそうと」<日の闇・おまえに>「在ると

いうことのふたしかさのゆえにさらにはげし

く在る」<日の歌>「だのに それは透明に

くるまれて見えない」<日の歌>「一個の卵

よりふたしかにかたちであるもの」<日の

歌>

 「たしかに在って見えないもの」への探索、

これがこの詩集を一貫する基本テーマで

あるし、そのような探索を通して金丸氏の関

心に常にあるものは「『わたし』とはいった

い何であった」か(「夏の海」)の解明、確認

である。この詩集でうたわれている多様な題

材はすべて、金丸氏の存在論的な形而上世界

に裏うちされている。





 幻影



 おまえが言う

 いっしんに野菜をきざんでいたら

 だれかがふっと外をよぎった

 でも だれもいなかった

 おまえは言う

 いっしんに編物をしていたら

 犬がわたしのよこをかすめて駈けた

 でも 犬なんかいなかった

 おまえは咳く

 でも なにかがいつもわたしのよこを駆けぬける

 あなたや犬や猫やが

 ほんとになぜだろう

 おれのかたがわをなにものかがいつも擦過する

 おまえやむすこたちであったりする

 血だらけの負傷兵であったりする





 この作品は本詩集中最も優れた作品であ

り、金丸氏の資質が遺憾なく発揮されてい

る。形而上的想念と抒情性がほどよくバラン

スをとって定着されている。











 以下、その5へ続きます。



二冊の詩集   (その3) [評論 等]





 ……ふと私は 私の 足もとに

 ひとつの名画を 発見した

 誰の 作品 なのか

 それは

 ひきいれられるような

 ファンタスティックな

 魅力を もってさえいた。

 大地に密着した

 いや

 それは大地自体が

 トワール として

 描かれたものであった。

 誰か そこに 

 ブラシ を あてたものなのか



          ーー「或る郊外」部分





 名は 形象する

 形象された 花々は

 その名の

 夢を みる

 絢爛な 名の花は

 絢爛な 夢を

 ささやかにして 敬虔な 名の花は

 ささやかにして 虔ましい 夢を

 密生した花々は

 その 夢を互に

 錯綜する

 絢爛な 夢と

 敬虔な 夢とは まじりあい

 生来の 姿を 喪失する

 名以前の 花々は
 
 形象されないままに

 抽象の花を 咲いては 散る



            ーー「花苑」部分





 更に私は北畠氏の次の短歌にも一種の絵画性を感じる。

 

 微熱あるままに紅茶をつづけてのみそれより薔薇の虫を殺せり



 一首から受けるものは「微熱ある」という

作者の状態、「虫を殺せり」という作者の行

為のきわだちよりも、むしろ「微熱」「紅茶」

「薔薇」という共通した色彩に色どられた言

葉がもたらす絵画的なイメージなのである。

素人考えだが、殺された虫そのものからも私

は一種の色彩を感じとるのである。

 北畠氏の絵画性はその作品に長所をもたら

したとみることもできる。星野氏の言う「ま

すます肥大化する頭脳とますます抹消化する

神経とのX線フィルムとして成立するとい

う」現代詩の「方向とはおよそ没交渉に書き

つづけられ、その結果として、「詩につい

ての全的な」ヴィジョンを把握できたという

面もあるのだが、しかし多面、その想念は

「少しばかりぼやかして、蒙昧な……シチュ

エイションに浮遊する」(著者「あとがき」)

ものという欠陥をもたらしてもいる。たしか

に現代詩は、「肥大する頭脳と末梢化する神

経」にわざわいされている。それを私はいい

こととは思わない。しかし、絵画からも音楽

からも離別して歩きつずけてきた現代詩の苦

渋にも私は思いをいたす。紙幅がないので要

約して言えば、詩と絵画は本質的には同棲で

きない。詩は本質に於て絵画を拒絶しなくて

はならないだろうし、絵画もまた本質に於て

詩を拒否しなくてはならないだろうと私は思

う。そういう意味で、新鮮なこの詩集の行手

にも大きな問題がたちはだかっている。











 以下、その4へ続きます。









二冊の詩集   (その2) [評論 等]





 したがって、そのような言葉の小集積ない

しは小集団としての各連は、連自身として独

立する渡合が強い。言い換えれば、各連間の

飛躍・断絶が著しくなる。飛躍・断絶は読み

手の想像力によって埋められねばならないわ

けだが、北畠氏の作品の場合も読み手の想像

力に依拠する渡合が強いのである。しかも北

畠氏の作品にあっては、読み手の想像作用が

進むにつれて、すでに読み過ごしてきた言葉

や連のイメージないし意味が、新たに展開さ

れる言葉や連のイメージないし意味と融合

し、そこで両者が浸透作用をおこすという働

き、つまり表現の展開、進捗につれて、読者

の想念なり情念なりを作品世界にむけて求心

的に拉致する働きがやや希薄のように思われ

る。むしろ読み進むにつれて各連が領する世

界は独立したものとして、そのイメージや意

味をきわだたせていくのである。これは氏の

発想や表現が流動的であるよりも空間的な性

格のものであることを語っている、と私には

思えるのである。こういう傾向は、現代詩一

般が多かれ少なかれ共通して持っている性格

なのだが、北畠氏の場合はそれが他に比べて

著しいのである。

 引用した詩「小鳥たち」についてみると、

この作品の主題は第二連の「還らぬものは/

かえらないのだ」という感慨にあるのだろう

し、その感慨の具象的展開として各連が配置

されているわけだが、この作品を読み終えた

あとでわれわれの心にきわだちよみがえって

くるものは、「還らぬものは/かえらないの

だ」という一種形而上的想念や思考ではな

い。「いくら啼いても/還らぬ」という姿に

於て捉えられた小鳥たちの姿、その「夕映え

に/つつまれて/木の枝に休」んでいる彼ら

のいわば絵画的な姿であり、彼らのとりまく

四周の「少しばかり/金色に」かがやいた風

景なのである。極論すれば「還らぬものは…

…云々」という想念は、落葉や、枝に休む小

鳥たちの姿にリアリティを与えるための一つ

のイメージとして表現されていると言えよう

か。そういう意味でこの作品の各連は、「還

らぬものは……」という想念にむかって流動

的に展開されているよりも、空間的に配置さ

れた静止的なものなのである。てっとり早く

言えば、これを絵の具に置きかえてなぞって

いけばそのままにして一つの絵画が出来上っ

ってくる、と言えるのである。次の作品などに

もその傾向がうかがえる。











 以下、その3へ続きます。



タグ:飛躍 断絶

二冊の詩集   (その1) [評論 等]





   二冊の詩集



 北畠公夫詩集「CROQUIS」(思潮社)

 「ここで気がつくことは、油絵の制作、あ

るいは絵画理念をモチーフとした作品が幾つ

も出てくるということだ。……これはこの詩

人がとりもなおさずひとりの画家でもあるこ

をを物語っている。……だが、この詩人の油

絵が比較的具象に傾むくのに対して、この画

家の詩は超現実風な趣きを呈している。これ

はおそらく、絵の具の空間的固定性と、言葉

の時間的流動性という、媒材の違いによるの

ではなかろうか。」

 これは、星野徹氏の跋文中の言葉である。

北畠氏の諸作品の基調に絵画理念を見ること

に於て、私はまた星野氏に同じく、北畠氏の

作品のモチーフが絵画理念に支えられている

と考えるばかりでなく、テーマそのもの、或

いはテーマを具象するための表現技法そのも

のの、更にヴィジョンそれ自体が絵画的で

あると私には思われる。空間的固定性、時間

的流動性という言葉を借りて言えば、北畠氏

の詩の「言葉」は、画家を兼務しない一般の

詩人の詩の「言葉」に比較して、空間的固定

的な性格がいちじるしいように感じられる。





   小鳥たち



 小鳥たち。



 いくら啼いても

 還らぬものは

 かえらないのだ。



 一枚の闊葉樹の

 葉が

 音もたてずに

 散ってゆく。



 少しばかり

 金色に あたりを

 かがやかせて



 小鳥たち。



 夕映に

 つつまれて

 木の枝に休もう。





 北畠氏の場合、一つ一つの言葉の持つ意味

や、言葉が領有するイメージは作品の中でか

なり重い役割を果している。北畠氏の場合に

限らず、すべての詩の言葉は、それ自体として

自律し完結していなければならないものであ

るわけだが、しかし、そうでありつつそれら

の言葉は、それらの言葉の集積の上に具現さ

れる詩世界にいったんは統合され解体される

ものであるだろう。そしてまさに自己の存在

を解体することによって、言葉は、リアリテ

イを確保し、自己を顕現することになるので

あろう。だが北畠氏の言葉は、あくまでも総

体の一部分、詩という宇宙の中の一小宇宙と

して、最後までその存在を主張しつずけてい

るように思われる。











 以下、その2へ続きます。

   「詩学」 1969(S44)年 9月号



鳥見迅彦詩集『なだれみち』など  (その6) [評論 等]





 「凍つる手に羽根摑ませて埋めしとや」の

追悼句などからは、死んだ少女の短い生涯が

はっきりと見えてくるし、少女をとり囲んで

いる人々の一つ一つの表情が見えてくる。

「百語り」の句にしても「うつし絵」の句に

しても「盲ひ女」の句「螢」の句「初泣き」

の句「手鞠児」の句にしても、背後に一つの

物語が暗示されているわけだが、それらの物

語や、物語を通して示された人生に対する泉

沢氏の眼はあたたかく、せつなさのようなも

のがまつわりついているようである。全くの

素人考えながら、私は蕪村的な世界を感じ

る。

 これらの句は表現技法上から言っても無理

なく詠まれており、そこから俳句本来の鋭さ

が獲得されてきたと思われるのだが、一方、

内容的にもまた技法の面でも意趣をこらした

ような作品は、それだけ句の質が低くなって

いると思われる。例えば次のような作品がそ

れである。





 氷解くる谷鋭角に曲りけり



 強飯(こはめし)やきさらぎの天かたく反(そ)り



 三月や雲の重さに背を病みぬ



 くさめして電工空をあるきだす



 ハレルヤを勢(きほ)ふ焦土の遅日かな



 滅亡の唄のごとくに鶯鳴きだす



 ユダのごとき影ら過ぎをり朝曇



 柳散るや楷書は太く下すべき



 基督に肖し息白く太きこと





 「強飯」と「天かたく反り」の結びつけ、

「雲の重さ」と「背の病」との結ぶつけに、

私は作為のあらわさを見るのである。効果を

計りすぎて句が品位を喪ってしまっている。

 私は泉沢の資質は、ここにはなく、初めに引

用した作品の世界にこそあると考えるのであ

る。











 「詩学」 1969(S44)年 8月号



この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。