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あたたかさ・純粋さ   (その5) [評論 等]





 「私の見ているものは、知恵と本能と神へ

の目覚めの中で苦悩する自分自身の心です。

どんなにそれが非情であっても見つめること

によってしか詩は生まれない。」(あとがき)

塔氏は自分の眼を精いっぱい開き、すべての

ものに全身で対している。と言える。私達

は、とりわけ私などはある年数にわたって詩

を書いてきた結果として、ものそのものにじ

かにむかい合いそこから得た直接的な感動に

もとずいてひたむきに作詩する態度をとかく

忘れてしまい、ありあわせの知識にもとずい

て通りいっぺんの作品を書いてしまいがちな

のだが、塔氏にはそのような弛緩した態度は

見られない。そして塔氏の見つめることのひ

たむきの底には、それを支えるものとして

の精神の強靭さがひそんでいる。





 すべての汚れの中の

 汚れない意志

 それは

 作ることのできないもの

 作った形では感じられないもの

 作ったものにはないもの

 より純粋に生きたものから咲いた花



         (「生きたものから」部分)





を捉えようと志す強固な「意志」

がひめられている。

 こういう塔氏の態度は、あたかも「一匹の

蜘蛛」が、蝶やトンボや蜂やその他、自己の

世界を通過するすべてのものを見逃さずに捉

えようとし、その為に自己の分身たる「繊細

な糸」を世界に張りめぐらし、そうして捕え

た一切のもの一切の現実を美醜にかかわらず

摂取し「胃の腑の中で消化させ」、それらを

養分として現実を捉えるための網目を更に一

層ひろげてゆく営みーーそのような「孤独な

作業」を続けているのに似ている。

 塔氏の作品に関して触れておきたいことが

もう一つある。それは表現の適確さとイメー

ジの燈明さ、新鮮さということである。引用

した作品からもそれは充分にうかがえると思

うが、次に幾つかの例をあげておく。





 叢の中で

 虫達は私の歩巾だけ移動する

 海の上にさざめく太陽と

 彼方の島影は

 ひとつの律動の中に溶け入り

 夏の入口で

 森の木々達は微笑みゆれていたのに

 そばへ行ってよく見ると

 それらはただ突っ立っている木



         ーー「夏」部分





 私は透明な意志の立体だ

 肥大していた皮膚は

 ないでゆく海のようになだらかになり

 血膿のしたたりは沈没した船みたいに

 膿盆の底で凝固する

 いつもそこで

 私は

 生きる力を約束されるのだ



        ーー「人体」部分





 それでも

 盲いた人は

 水たまりのあることさえ気付かず

 全く無頓着に歩いていた

 思い思いの

 心の深さをうつして

 不思議で

 危険な水たまりがあった

        ーー「水溜り」部分





 深く燈明なイメージを持つこれらの詩句

は、塔氏のものを見る眼の確かさ、世界につ

いての洞察の深さを表している。











 「詩学」 1969(S44)年 12月号



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