『詩人という不思議な人々』より、笹原常与
『詩人という不思議な人々』 ◆わたしの現代詩人事典◆ 嶋岡 晨 著より、笹原常与。
さ 笹原常与
神田駿河台を神保町へ下る坂の途中に、文庫本の古本ばかり扱う店がある。先日ちょっと覗いた
ら、フラピエの『女生徒』が見つかり、懐かしかった。昭和一四年刊、岩波文庫、桜田佐訳、定価
二十銭ーーを五百円で買った。そうして、電車のなかで読みながら、旧友・笹原常与のことを思っ
た。
ある時期(それは、わたしも彼も共通の友も、みなまだ独身だった時期だが)、しきりに「フラ
ピエはいいぞ」と推奨する笹原をからかい、わたしたちが〈フラピエ〉という渾名を彼に呈したこ
とがあった。
Leon Frapie[1863~1919]貧民窟の少年たちをえがいた長編小説『保育園』(一九〇四)で
ゴンクール賞をとった作家。
「彼は日々のパンに追はれてゐるやうな貧民や労働者の生活を観察し、その家庭や勤め先に在る
人達、親子、兄弟、同僚、殊に幼い者同志の間に通ふ幽かな心の陰翳を捉えて、簡素な筆に託して
行く。……」と桜田は、フラピエの特色を要約している。貧しく、寂しく、痛ましく、この世の暗
い片隅でひっそりと暮らしつつ、それでもけなげに精一杯生きていく人々のすがたは、読者の心に
しみじみとした人間的共感をもたらす……そういう作風である。親の軽はずみな一言で、家出して
しまう少年をえがいた「出来事」、日ごろ女房を恐れている口振りの同僚を、いじめてやろうと家
庭をおそった職場仲間が、じつは同僚の言う〈女房〉が、まだ一二歳の娘だったと知らされる「女
房」……どれも、ほろりとさせられる。
再読して、あらためて、いまなおそれらの小品から笹原の詩の底へと流れかようある情緒を、わ
たしは確認させられた。変わりない、しみじみした、悲しくも優しくあたたかい情緒。
むかしから、家の書架の端にのっかっている鳩笛を、わたしはまた手に取った。ざっと濃緑に色
付けした、胴のやや平たい、素朴な鳩笛。結婚して間もないころだったか、わたしは、足立区●●
●町(現・●●●●●)ーー荒川ぞいの、煙突の多いのが印象的な、いかにも庶民的な懐かしさが
匂う町に、●●家を訪ねた(●●が笹原の本名である)。そのおり、コレクションのなかから、わ
が〈フラピエ〉が祝意をこめて気前よくくれた一個だ。鳩笛のコレクションというのも、いかにも
笹原らしいものに感じられたことだ……と、今も手の上のあたたかい重みをいとおしんでいる。
昭和二十九年春だった、わたしたちの初期「貘」同人が初めて笹原に会ったのは。同年「詩学」
二月号のコンクール応募作品のなかに、笹原の「黒人霊歌」があり、わたしや大野純はこの詩に打
たれた。
はるかな
いちめんの雨のように
黒人霊歌はうたわれているだろう
ぼくらの知らないとおい国で
ぼくらの住んでいるぼくらの国で
そしてぼくらの心のはてしない曠野で
……
と「黒人霊歌」ははじまる。その歌はーー笹原の詩情
は、「雨のようにふるえながら/ぼくらの心にしみとお
ってくる」のだった。わたしは「詩学」に住所を問い合
わせ、笹原宛に手紙を出し、「貘」への参加をよびかけ
た。駿河台の明大近くの喫茶店「ヒルトップ」に、わた
したちは、よくたむろしていた。(同名のホテルとは無
関係。)仲間の餌取の妹がウエートレスをしていたし、
色っぽくて気っぷのいいママは、何時間ねばってもイヤ
な顔をしなかった。その喫茶店で笹原と落ち合った。昭和三十三年に出た笹原の詩集『町のノオト』
(国文社)の跋に、そのときの印象をわたしは、こう書いている。
「あらわれた作者は、ぼくたちと同年輩のくせにまだ少年のような色白の美男子で、女の話
をするとすぐに顔をあからめるほどの純潔さをもっていて、ぼくらの「ホラ」もつつましく素直に受け
入れる人物で、早稲田の国文科の学生だった。……最初の挨拶のときから、妙にひとの胸
の底にしのびこんでくる孤独感を発散させていた」
片岡文雄に言わせると、大野や餌取の応対ぶりを「しずかな笑みをたたえながら見ていた色白の
美青年が笹原常与であり、ぼくはこの人のじっとなにかをあっためている美しさに魅惑された」
(「わが薄明の次代」)
「ほっといてくれ/誰も 俺にさわるな……」とイナバの白兎になぞらえて己を歌った詩が、
笹原の処女詩集にある。
俺は皮をひんむかれ
ふるえあうのをやっと合わせた手の形に
立たされている むき出しの良心なのだ
そんな、いたいたしいほどの純な感性が、彼の皮膚には透けて見えた。彼の第二詩集は、昭和三
十八年の『井戸』(思潮社)ーーなかの「木」に、笹原的世界はすでにみごとに成熟しているが、
やや長すぎるので、その感性の要約されたものとして、わたしは、次に「使い走りの子」(全文)を
引こう。小学生の教科書に、まだならぜひとも採用してほしい秀作だ。
使い走りの子が帰ってきた。
夕焼けの中から。
髪をふり乱して。泣きそうな顔をして。
何を町で買ってきたのだろう。
いいえ
夕焼けのはずれよりも もっと遠い湖に
どんな青ざめた顔を
落してきたというのだろう。
自分の顔をとりもどしに行くように
暮れはじめると また
使い走りの子は
出かけてゆく。
さらに、引用を遠慮した「木」の冒頭、[1 立木]の、せめて最初の三行を、口ずさんでほし
い。
わたしは坂の上に立っている思い出だ
思い出の深さがそのまま
わたしの木陰の深さだ
……こうした、独自のモダーンな形而上学的感性は、しかし伝統的・短歌的抒情を単純に否定す
ることなく、むしろすすんで取り込みながら、表現を、上滑りの幻想にながすことなく、生活現実
にしっかり腰を据えた〈認識〉に繋ぎつつ、つねに「良心」ーー詩的モラルに恥じないものとした。
年齢をかさねるごとに、無理なくその〈木〉的感性は純潔性をたもちながら、成長した。現代詩の
ひとつの奇跡といっても、おかしくはない。
正則高校、昭和女子大付属高校などで、長い間教鞭をとったあと、笹原は神戸に行った。いま
はある大学の国文科の教授になっているようだが、いまだに根気よく「貘」につきあって、原稿を
送ってよこす。去年(1988年 管理人注)九月に出た「貘」の笹原の詩を、抄出紹介しておこう。わたしの「奇跡」
と言
う意味が、解ってもらえるだろう。その歌いぶりは、基本的トーンにおいて、また表現のスタイル
おいて、三十五年前とほとんど変わりがない。
淡水魚
1
水彩絵具を溶くように
魚は
水に 自分のかたちと体温を
解(と)いている。
魂のしこりも 濯いでは
水に散らしている。
そうして「自分」をうすめながら
水の深さに重なろうとして
魚は 水の流れに 身を晒している。
2
けれども どんなに
尽きることのない いのちの水彩絵具が
魚の生の奥に とどこおっているのだろう。
長い時間を費やして 晒しつづけても
魚の生は 容易に薄まらない。
濡れた体の芯に
微熱が散らずに残っているように。
むしろ 魚の実体が消えたあとまで
微熱だけが 魚のかたちを保って
水に残っているように。
(以下3~6を省略)
文字数が少ない所はタバコを手に笑顔の先生の写真が載っています。(昭和30年代)
お名前と住所は念のため伏せさせて頂きました。
嶋岡晨先生に掲載の許諾を頂きました!
さ 笹原常与
神田駿河台を神保町へ下る坂の途中に、文庫本の古本ばかり扱う店がある。先日ちょっと覗いた
ら、フラピエの『女生徒』が見つかり、懐かしかった。昭和一四年刊、岩波文庫、桜田佐訳、定価
二十銭ーーを五百円で買った。そうして、電車のなかで読みながら、旧友・笹原常与のことを思っ
た。
ある時期(それは、わたしも彼も共通の友も、みなまだ独身だった時期だが)、しきりに「フラ
ピエはいいぞ」と推奨する笹原をからかい、わたしたちが〈フラピエ〉という渾名を彼に呈したこ
とがあった。
Leon Frapie[1863~1919]貧民窟の少年たちをえがいた長編小説『保育園』(一九〇四)で
ゴンクール賞をとった作家。
「彼は日々のパンに追はれてゐるやうな貧民や労働者の生活を観察し、その家庭や勤め先に在る
人達、親子、兄弟、同僚、殊に幼い者同志の間に通ふ幽かな心の陰翳を捉えて、簡素な筆に託して
行く。……」と桜田は、フラピエの特色を要約している。貧しく、寂しく、痛ましく、この世の暗
い片隅でひっそりと暮らしつつ、それでもけなげに精一杯生きていく人々のすがたは、読者の心に
しみじみとした人間的共感をもたらす……そういう作風である。親の軽はずみな一言で、家出して
しまう少年をえがいた「出来事」、日ごろ女房を恐れている口振りの同僚を、いじめてやろうと家
庭をおそった職場仲間が、じつは同僚の言う〈女房〉が、まだ一二歳の娘だったと知らされる「女
房」……どれも、ほろりとさせられる。
再読して、あらためて、いまなおそれらの小品から笹原の詩の底へと流れかようある情緒を、わ
たしは確認させられた。変わりない、しみじみした、悲しくも優しくあたたかい情緒。
むかしから、家の書架の端にのっかっている鳩笛を、わたしはまた手に取った。ざっと濃緑に色
付けした、胴のやや平たい、素朴な鳩笛。結婚して間もないころだったか、わたしは、足立区●●
●町(現・●●●●●)ーー荒川ぞいの、煙突の多いのが印象的な、いかにも庶民的な懐かしさが
匂う町に、●●家を訪ねた(●●が笹原の本名である)。そのおり、コレクションのなかから、わ
が〈フラピエ〉が祝意をこめて気前よくくれた一個だ。鳩笛のコレクションというのも、いかにも
笹原らしいものに感じられたことだ……と、今も手の上のあたたかい重みをいとおしんでいる。
昭和二十九年春だった、わたしたちの初期「貘」同人が初めて笹原に会ったのは。同年「詩学」
二月号のコンクール応募作品のなかに、笹原の「黒人霊歌」があり、わたしや大野純はこの詩に打
たれた。
はるかな
いちめんの雨のように
黒人霊歌はうたわれているだろう
ぼくらの知らないとおい国で
ぼくらの住んでいるぼくらの国で
そしてぼくらの心のはてしない曠野で
……
と「黒人霊歌」ははじまる。その歌はーー笹原の詩情
は、「雨のようにふるえながら/ぼくらの心にしみとお
ってくる」のだった。わたしは「詩学」に住所を問い合
わせ、笹原宛に手紙を出し、「貘」への参加をよびかけ
た。駿河台の明大近くの喫茶店「ヒルトップ」に、わた
したちは、よくたむろしていた。(同名のホテルとは無
関係。)仲間の餌取の妹がウエートレスをしていたし、
色っぽくて気っぷのいいママは、何時間ねばってもイヤ
な顔をしなかった。その喫茶店で笹原と落ち合った。昭和三十三年に出た笹原の詩集『町のノオト』
(国文社)の跋に、そのときの印象をわたしは、こう書いている。
「あらわれた作者は、ぼくたちと同年輩のくせにまだ少年のような色白の美男子で、女の話
をするとすぐに顔をあからめるほどの純潔さをもっていて、ぼくらの「ホラ」もつつましく素直に受け
入れる人物で、早稲田の国文科の学生だった。……最初の挨拶のときから、妙にひとの胸
の底にしのびこんでくる孤独感を発散させていた」
片岡文雄に言わせると、大野や餌取の応対ぶりを「しずかな笑みをたたえながら見ていた色白の
美青年が笹原常与であり、ぼくはこの人のじっとなにかをあっためている美しさに魅惑された」
(「わが薄明の次代」)
「ほっといてくれ/誰も 俺にさわるな……」とイナバの白兎になぞらえて己を歌った詩が、
笹原の処女詩集にある。
俺は皮をひんむかれ
ふるえあうのをやっと合わせた手の形に
立たされている むき出しの良心なのだ
そんな、いたいたしいほどの純な感性が、彼の皮膚には透けて見えた。彼の第二詩集は、昭和三
十八年の『井戸』(思潮社)ーーなかの「木」に、笹原的世界はすでにみごとに成熟しているが、
やや長すぎるので、その感性の要約されたものとして、わたしは、次に「使い走りの子」(全文)を
引こう。小学生の教科書に、まだならぜひとも採用してほしい秀作だ。
使い走りの子が帰ってきた。
夕焼けの中から。
髪をふり乱して。泣きそうな顔をして。
何を町で買ってきたのだろう。
いいえ
夕焼けのはずれよりも もっと遠い湖に
どんな青ざめた顔を
落してきたというのだろう。
自分の顔をとりもどしに行くように
暮れはじめると また
使い走りの子は
出かけてゆく。
さらに、引用を遠慮した「木」の冒頭、[1 立木]の、せめて最初の三行を、口ずさんでほし
い。
わたしは坂の上に立っている思い出だ
思い出の深さがそのまま
わたしの木陰の深さだ
……こうした、独自のモダーンな形而上学的感性は、しかし伝統的・短歌的抒情を単純に否定す
ることなく、むしろすすんで取り込みながら、表現を、上滑りの幻想にながすことなく、生活現実
にしっかり腰を据えた〈認識〉に繋ぎつつ、つねに「良心」ーー詩的モラルに恥じないものとした。
年齢をかさねるごとに、無理なくその〈木〉的感性は純潔性をたもちながら、成長した。現代詩の
ひとつの奇跡といっても、おかしくはない。
正則高校、昭和女子大付属高校などで、長い間教鞭をとったあと、笹原は神戸に行った。いま
はある大学の国文科の教授になっているようだが、いまだに根気よく「貘」につきあって、原稿を
送ってよこす。去年(1988年 管理人注)九月に出た「貘」の笹原の詩を、抄出紹介しておこう。わたしの「奇跡」
と言
う意味が、解ってもらえるだろう。その歌いぶりは、基本的トーンにおいて、また表現のスタイル
おいて、三十五年前とほとんど変わりがない。
淡水魚
1
水彩絵具を溶くように
魚は
水に 自分のかたちと体温を
解(と)いている。
魂のしこりも 濯いでは
水に散らしている。
そうして「自分」をうすめながら
水の深さに重なろうとして
魚は 水の流れに 身を晒している。
2
けれども どんなに
尽きることのない いのちの水彩絵具が
魚の生の奥に とどこおっているのだろう。
長い時間を費やして 晒しつづけても
魚の生は 容易に薄まらない。
濡れた体の芯に
微熱が散らずに残っているように。
むしろ 魚の実体が消えたあとまで
微熱だけが 魚のかたちを保って
水に残っているように。
(以下3~6を省略)
文字数が少ない所はタバコを手に笑顔の先生の写真が載っています。(昭和30年代)
お名前と住所は念のため伏せさせて頂きました。
嶋岡晨先生に掲載の許諾を頂きました!
2015-02-26 21:29
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