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わが詩的課題  (その3) [評論 等]

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   わが詩的課題  (その3)


 「否定」の対象となった「抒情」が彼らの言う通りに「否定」さ

るべき「短歌的」なもので仮りにあったにしろ、それらの個々の作

品を生み出した社会的背景及びその様な背景の中に位した各作家に

ついての充分の考察と批判・評価なしに出されたものであるなら

ば、私はむしろ「短歌的抒情」を擁護する側に立とうとさえ本気に

考えるものだ。

 「第二芸術」として引き合いに出された俳句(俳諧)の作り手達

がやがて「第二芸術論」などという雑な称呼(「第二」であってし

かも「芸術」であるなどということは絶対にあり得ぬ)によって否

定されるかも知れないことを、ことによったら勘定に入れつつ文学

への完成をめざして努力したその努力の方をこそ私はかおうと思う

のである。

 ともあれ私は景気の悪いもの、「脆さ」「弱さ」として片づけら

れる危険をはらんだもの、涙や吐息にさえもそれ自体に対しては恐

れたりしまいと思う。そしてそれらを通じて人間をつかむことに

「わが詩的課題」を当面置くものである。

 ただその際に例えば『ドガ・ダンス・デッサン』に於てドガの言

葉を引用して述べたヴァレリーの「一つの作品を完成するというこ

とは、其処から凡て制作の跡を消し去ることである。それ故にこの

古風な規定に従へば、芸術家はその作品に於て、彼のスタイルによ

ってしか彼自身を現してはおらず、作品から努力の跡が全く消える

まで努力を継続すべきなのである」という言葉や、『ロダン』に於

て述べた「すべては明瞭に決定されゐた。偶然を許す余地はどこ

にもないように思はれた。ロダンのすべての偶像のやうに、この群

像もまたそれ自身まとまってゐた。決して流出し消え去ることなく

循環してゐる生命に充たされた一つの独自の世界、一つのまとまっ

たものであった」というリルケの言葉などはやはり色々な意味で参

考になろうし、「わが詩的課題」について考える時、私は役立てよ

うと思っている。











 「詩学」 S34年 9月号





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