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勝野睦人書附け  (ニ) [評論 等]




   二、比喩的発想


 勝野の作品を読んでまず感じることは、三十五篇の詩がことごと

くアレゴリーをもって書かれていることである。彼の場合、比喩表

現はただちに彼の詩の発想に結びつくという性質を持っている。単

に詩表現上の技法としてそれが用いられているというよりは、彼に

あってはむしろ発想それ自体がそもそも比喩的なのである。比喩す

るものと、比喩されるものとがここにあって、両者の間に作者の詩

作意識が介在しそうして初めて両者が詩的に統一され、生かされる

という関係とは別の趣きのもの、つまり、当初から両者は分離する

ことのできないもの、作者の技法上の意識が介在するいとまのない

もの、要するに、嘱目の対象は即時的に詩的発想につながる、とい

う体のものとしてそれはある。だから勝野にあっては、比喩の適不

適、巧拙という問題は、言わば技法上の問題としてあるよりも、た

だちにポエジイの質あるいは価値にかかわるものとして、より本質

的な姿で存在しているのである。



 あたしは神様の食卓

              (『LA NATURE MORTE Ⅰ』)

 わたしのいかりには注ぎ口がない

 わたしのかなしみにも注ぎ口がない

         (同Ⅱ)

 「哀しみ」は

 わたしの隅のちいさい砂場だ

         (「『哀しみ』は」)

 わたしたちのこころはみな

 底の浅い小抽出しです

          (「抽出し」)

 わたしは そら

 ひとつの穴だ

         (「穴」)

 空は一個の食卓であり

 鈍い羽根音がしみついている

           (「蠅」)

 「こころ」は 捨てられた小壜です

        (「『こころ』は」)



 これらはいずれも彼の詩の冒頭に書かれた詩句であるが、こうい

う具合にして彼のすべての作品は発想され、そしてこれらの比喩の

展開ーー比喩される事物の即物的な展開に即して、勝野の詩は展開

され形象化されてゆく。

 例を「あたしは 神様の食卓」という詩句にとって言えば、「あ

たし」は、「食卓」という具体的な事物によって喚起され、そうし

てはじめて作者自身の詩的関心の対象となる。この「食卓」が作者

がたまたま目にした現実の食卓であるかどうかにかかわりなく、彼

にあっては、「食卓」の存在感およびそのイメージがただちに「あ

たし」を喚起するものとして即時的にとらえられる。いささか図式

的な言い方になるが、「あたし」→「神様」→「神様の食卓」とい

う順序を踏むのが、比喩表現の一般的な形であろうが、勝野の場合

には丁度その逆の形、「食卓」→「神様の食卓」→「あたし」とい

う順序で一瞬のうちに発想されているように私には考えられる。

 「比喩もただ見つけ出してくるだけでは駄目で、その姿を浮彫し

なくてはいけない」と、勝野は書簡の中で言っているが、「ただ見

つけ出してくるだけで」終らずに、「浮彫」することができたのは

右にみた勝野の詩発想と比喩との関係に加えて、例えば、光太郎の

「牛」における「牛が自然を見ることは牛が自分を見ることだ/外

を見るといっしょに内が見え/内を見るといっしょに外が見える」

といった類の能力を、勝野が生来のものとして持っていたからにち

がいない。














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