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短歌は弱い心の棲家か   (その4) [評論 等]




そういうところに「帰りける」という事

態が発生し、更に「帰りける人来れりといひ

しかば」という身近かな事実が続いてやって

きた。「いひしかば」、つまり誰か他の者から

いわば人伝てにそれを聞いた時の娘子の驚

き、ときめき、喜び、期待、そしてある種の

不安、ほとんど自制を失う程の複雑で興奮し

た感情の高ぶりは、次の句の「ほとほと死に

き」を読むことによってわれわれの胸にじか

に伝わってくる。前後の判断を失う程の感情

の興奮状態は、この「ほとほと死にき」とい

う表現によって、具体的に、悲しいまでに言

いつくされていると思う。私にはその時の娘

子のいてもたってもいられない、しかし何と

しても孤独な姿がはっきりと見える思いがす

る。そしてそういう娘子の姿は人間の生身の

美しさをむき出しにしており、「個人的な悲

壮感」「感傷的なヒロイズム」などという観

念的な評語の溶喙を許さぬほど、実に素朴

で、無邪気でさえある姿だと思う。ところが

この感情の興奮状態にとどめをさすように

「君かと思ひて」という結句が続く。この結

句に先だつ各句の内実が内実であっただけに

この句の響きは悲愴である。武田祐吉は「そ

の後(喜びの後ーー筆者)に来る失望が歌われ

ていないのは惜しい」(『全注釈』)と言って

いるが私はそうは思わない。具体的表現とし

ては「君かと思ひて」で一首完結し、「その

後に来る失望が歌われていない。」しかし「後

に来る失望」は一首としての表現が完結した

時、そこからつまりその後に実に深い余韻と

して「歌われて」おり、この一首全体を包ん

でいると思う。そしてそれらを通して現われ

た娘子の姿は実に痛々しく、また比類なく美

しい人間の一つの姿であろうと思う。「カエ

リケルヒトキタレリトイヒシカバホトホトシ

ニキキミカトオモヒテ」というしらべ、韻律

はこれらの内実・感情に密着して、これらの

内実・感情を表わす上に効いている。











以下、その5に続きます。











タグ:娘子 内実 感情
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