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短歌は弱い心の棲家か   (その6) [評論 等]





  幾度か逆襲せる敵をしりぞけて夜が明け行けば涙流れぬ


 渡辺直己のこの歌を或る者は「描写であり

詠歎のリズムに支えられた記録」「一定の音

数による文字の配列」であるというようなそ

そっかしい仕方でかたずけている。紙面がな

いので詳しく言えぬのを残念に思うが、この

歌は決して単なる「記録」や「文字の配列」

に過ぎぬようなものではない。こんな評語で

この一首をわりきっているのはその者自身の

そそっかしさを表わしているだけである。素

材的にみればこの一首は徹頭徹尾戦争の実

相、しかもその一局部としての激戦の様相を

描いているだけである。ここには激戦の事

実、その激戦に参加した者の実感が述べられ

ているだけである。しかし事実をこのような

明らかな眼で見、このようなしらべをともな

って一首として詠みきった時、素材は限定さ

れた素材を踏み越えて、実に広く深い人間感

情の深部、人間そのものを表現し得ている。

ここには人間の一つの姿が明らかによまれて

いる。「夜が明け行けば涙ながれぬ」という

第四句及び結句にこめられた感情が「感傷」

などというなまやさしいものではない。「退

け」た者「退け」られた者の別なく作者は人

間の姿を見ている。意識を麻痺させる程の極

度の緊張の持続の下で、夜どうし激戦を繰り

返してきたという事実をふりかえり、その激

戦に従った人間同士、そういう行為に従わね

ばならなかった人間に、作者は涙をながして

いるのである。ここにあるものは敵味方の区

別ではない。敵味方の判別を越えた人間その

ものの姿である。ここには戦争に対する何ら

かの意見なり批判、小野の言う「抵抗」など

ということは言葉としては一つも表わされて

いない。しかし激戦の様相及びそれに従う人

間の姿を明らかに見ているという事実そのも

のが、例えば観念としての戦争批判、「抵

抗以上に全身的本質的な戦争批判になって

いると思う。











以下、その7に続きます。

短歌は一行にし、間をあけました。










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