片岡文雄詩集『悪霊』など (その5) [評論 等]
片岡の詩のうたい口には独特のものがあ
り、言葉はやわらかくつややかである。
ほおお
ほおおっと
やみにささ竹をかざすわたしの分身に
ほうう
ほうううほと
ひくくともる声がしのんでいる
<ほうたるはとれたか
<ほうたるはどれほどとれたか
とすがりつく声がひそんでいる
あかるむこともはばかられ
子孫のつばきのなかで
おおきなからだをねがえりさせるひとは
てんめつするいのちの岸に
つきないおのれの血をたしかめる
声になる
(「ほたる抄」)
この作品などは、片岡のうたい口の特徴を
最もよく示している。<わたし>に執する片
岡の態度は、彼の表現・うたい口にも一貫し
ているとみることができる。
眠りのなかで
とも綱を解いた少年はわたしであった
わたしはおもいきり泣く
泣きわめく仲間にわたしは泣く
ふなべりにとりついて泣く
波にむかって泣く
(略)
解かれた舟を
つれもどす手だては断たれた
消えたわたしの少年の叫びはそのままだ。
(「夜をめぐる三章」)
片岡の詩には言いようのないせつなさがま
つわりついている。彼のせつなさはどこから
くるのだろうか。おそらくわたし>をさぐ
り、血脈をさかのぼり「生」の実相に次第に
深入りしていく彼の、素裸の魂からこみあげ
てくるのだろう。ともあれ片岡は「消えたわ
たしの少年の」「そのまま」に放置されてい
る「叫び」をもやがて明らかにしていくだろ
う。
以下、その6に続きます。
詩は詰めて書かれてあるのを戻しました。
2015-09-16 19:58
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