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片岡文雄詩集『悪霊』など   (その6) [評論 等]





 寺門仁詩集『続遊女』(風社刊)

 詩集『遊女』に続く著者の第二詩集。収録詩数十三篇。



   非人湯女



湯女は死んでからは

山に入り山蛭などと 枯葉の間にいた

やさしい姿をしながら

どうしてこんなに強く

暗さと汚れとを求めるのだろう

彼女のいた処はいつも

幸わせの下の不幸な場所だった

湯女は

恋人が欲しかった

山から降りて隅田川べりを捜したこともある

乞食にまで近づいたこともあった

荷風散人に会い

理想と思う男について話してみたが

微笑するばかりで答えてはくれなかった

いつか郊外へ出ていた

人家に押された田んぼの土が

滅びの歌を歌って心を唆られた

湯女はどっぷりした溝に緋鯉に変身して入り

嘆き流れる土の霊たちと泳ぎまわった

              (以下略)



 寺門氏の詩は一様に長く、紙数の関係もあ

って完全な形で再録することが出来ないのを

残念に思う。引用した作品は必ずしも集中の

代表作というわけではないが、ひとまず寺門

氏の作品傾向をうかがい知る手だてとなるだ

ろう。引用した作品と「薔薇娼婦」以外はす

べて「文楽遊女」「祠遊女」「深傷遊女」と

いう具合に、題名そのものにも遊女の名が記

されている。寺門氏の遊女はほとんどが死ん

だり変身したりしている。「霊」となって此

岸と彼岸を行き来しながら、今もなお成仏で

きずにさまよいつづけている。「自分のため

に/妻子まで餓えさせた男のことなど思いだ

し……後悔で燃え」、更には魂が「浄められ

故郷へ/入っていける」ことを願いながら、

「奇怪な男が現れ」ると、その男の「眼の

光に引き付けられ」て「むらむらと別な情熱

が湧き起こって」(「文楽遊女」)きてしま

う遊女たちなのである。寺門氏は彼岸という

いわばネガティブな世界をさまよう遊女の姿

を描くことによって、此岸を描き、この世の

「暗さと汚れ」を描き、そしてそこに生きる

われわれの実存の姿を捉えようとしている。

「彼女のいた処はいつも/幸わせの下の不幸

な場所」であったにもかかわらず、「死んで

から」もなお「強く/暗さと汚れとを求める

」湯女の姿に、とりもなおさず、寺門氏はわ

れわれの生きる姿を見出している。「やさし

い姿をしながら」と書いているが、「やさし

い」性根を持っているからこそ、死してなお

暗さと汚れにみちた此岸を求める結果になる

のであり、そしてそういう執念が実は湯女の

姿を「やさしく」したと言えるだろう。











以下、その7へ続きます。



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