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詩集『幻影哀歌』など   (その2) [評論 等]





 岡田氏は、この詩集の序言とでも言うべき

「発言」と題する文章の中でこう言ってい

る。「何十年もふしあわせでその痛苦の身の

上を 人目に曝したまま卑しまれ続けた人た

ちは どのようにして死ぬまでの間を生きぬ

けたことだろう 生れ出たことがなんとして

も残念であったと 泣いて私に訴えた人の哀

歌を とかく不実に陥りやすい自身に錐揉ん

で私も その歌に和した その人に加えて

できるものなら母胎へ帰りたい まだ運命も

嗅ぎつけないその中で しあわせな短時間の

生涯を作りたいと あるいはこのままで<幻

になりその幻を肉体化して 塔とも紫陽花と

も螢ブクロとも同化したその 姿や汁液に摺

りつかった異形で ふしあわせを世へあばき

出したいとも語っていた(以下略)」

 ここに発言されていることがらは、詩集

『幻影哀歌』のモチーフを簡潔に語ってい

る。と共に一貫したテーマをも語っている。

つまりこの詩集で岡田氏は「泣いて私に訴え

た人」について、及びその「人」にかかわる

「哀歌」を終始うたっているのであり、「そ

の歌に和す」ことによって、「しあわせな短

時間の生涯を作りたいと願っているのであ

る。「生れ出たことがなんとしても残念であ

った」とする認識は、言うまでもなく、生れ

出たことが幸せであったと言えるような充溢

した生を願う祈念の深さから生じたものであ

る。つまりは「しあわせな生涯を」「短時間」

でもいいから作りたいという願望にもとずい

ている。そしてそういう願望は、「何十年も

ふしあわせでその痛苦の身の上を人目に曝し

たまま卑しまれ続けた」ことによって生じき

たったものであるが、同時にまた「生」の充

溢と完璧を願う祈念の高さが、何十年ものふ

しあわせや痛苦をもたらしたとも言えるので

ある。岡田氏は自己の実存の姿を「泣いて私

に訴えた人」にたくしてうたい、うたうこと

によって自己の実在を確認しようとしてい

る。

 その「人」とは誰なのか。それは「痴呆を

卑しまれて死んだ娘」であり、「脳をいため

てしまった女」であり、「患った人格の崩れ

落ちたような」「侘しい人格」の持ち主であ

る。そしてこの「娘」や「女」は幻影となっ

て、ほとんど総ての作品に出没している。或

る時は塔となり、紫陽花となり螢ブクロとな

り梨の実となって現われる。岡田氏がこれほ

どまでに執し、繰り返しうたっている「娘」

は実在した人間にちがいない。けれども事実

の詮索は無用のことである。「見ると娘は二

重の姿になっていた。その表面は痴呆症で内

部には、同じ痴呆の私の分身の、さびしい人

格がひらいていた」<野反湖>という詩句を

引くまでもなく、この詩集に出没する「娘」

は、とりもなおさず岡田氏自身なのであり、

岡田氏の自己認識の投影されたものである。











以下、その3へ続きます。



タグ:序言 発言
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