二冊の詩集 (その2) [評論 等]
したがって、そのような言葉の小集積ない
しは小集団としての各連は、連自身として独
立する渡合が強い。言い換えれば、各連間の
飛躍・断絶が著しくなる。飛躍・断絶は読み
手の想像力によって埋められねばならないわ
けだが、北畠氏の作品の場合も読み手の想像
力に依拠する渡合が強いのである。しかも北
畠氏の作品にあっては、読み手の想像作用が
進むにつれて、すでに読み過ごしてきた言葉
や連のイメージないし意味が、新たに展開さ
れる言葉や連のイメージないし意味と融合
し、そこで両者が浸透作用をおこすという働
き、つまり表現の展開、進捗につれて、読者
の想念なり情念なりを作品世界にむけて求心
的に拉致する働きがやや希薄のように思われ
る。むしろ読み進むにつれて各連が領する世
界は独立したものとして、そのイメージや意
味をきわだたせていくのである。これは氏の
発想や表現が流動的であるよりも空間的な性
格のものであることを語っている、と私には
思えるのである。こういう傾向は、現代詩一
般が多かれ少なかれ共通して持っている性格
なのだが、北畠氏の場合はそれが他に比べて
著しいのである。
引用した詩「小鳥たち」についてみると、
この作品の主題は第二連の「還らぬものは/
かえらないのだ」という感慨にあるのだろう
し、その感慨の具象的展開として各連が配置
されているわけだが、この作品を読み終えた
あとでわれわれの心にきわだちよみがえって
くるものは、「還らぬものは/かえらないの
だ」という一種形而上的想念や思考ではな
い。「いくら啼いても/還らぬ」という姿に
於て捉えられた小鳥たちの姿、その「夕映え
に/つつまれて/木の枝に休」んでいる彼ら
のいわば絵画的な姿であり、彼らのとりまく
四周の「少しばかり/金色に」かがやいた風
景なのである。極論すれば「還らぬものは…
…云々」という想念は、落葉や、枝に休む小
鳥たちの姿にリアリティを与えるための一つ
のイメージとして表現されていると言えよう
か。そういう意味でこの作品の各連は、「還
らぬものは……」という想念にむかって流動
的に展開されているよりも、空間的に配置さ
れた静止的なものなのである。てっとり早く
言えば、これを絵の具に置きかえてなぞって
いけばそのままにして一つの絵画が出来上っ
ってくる、と言えるのである。次の作品などに
もその傾向がうかがえる。
以下、その3へ続きます。
2016-03-03 22:00
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