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二冊の詩集   (その3) [評論 等]





 ……ふと私は 私の 足もとに

 ひとつの名画を 発見した

 誰の 作品 なのか

 それは

 ひきいれられるような

 ファンタスティックな

 魅力を もってさえいた。

 大地に密着した

 いや

 それは大地自体が

 トワール として

 描かれたものであった。

 誰か そこに 

 ブラシ を あてたものなのか



          ーー「或る郊外」部分





 名は 形象する

 形象された 花々は

 その名の

 夢を みる

 絢爛な 名の花は

 絢爛な 夢を

 ささやかにして 敬虔な 名の花は

 ささやかにして 虔ましい 夢を

 密生した花々は

 その 夢を互に

 錯綜する

 絢爛な 夢と

 敬虔な 夢とは まじりあい

 生来の 姿を 喪失する

 名以前の 花々は
 
 形象されないままに

 抽象の花を 咲いては 散る



            ーー「花苑」部分





 更に私は北畠氏の次の短歌にも一種の絵画性を感じる。

 

 微熱あるままに紅茶をつづけてのみそれより薔薇の虫を殺せり



 一首から受けるものは「微熱ある」という

作者の状態、「虫を殺せり」という作者の行

為のきわだちよりも、むしろ「微熱」「紅茶」

「薔薇」という共通した色彩に色どられた言

葉がもたらす絵画的なイメージなのである。

素人考えだが、殺された虫そのものからも私

は一種の色彩を感じとるのである。

 北畠氏の絵画性はその作品に長所をもたら

したとみることもできる。星野氏の言う「ま

すます肥大化する頭脳とますます抹消化する

神経とのX線フィルムとして成立するとい

う」現代詩の「方向とはおよそ没交渉に書き

つづけられ、その結果として、「詩につい

ての全的な」ヴィジョンを把握できたという

面もあるのだが、しかし多面、その想念は

「少しばかりぼやかして、蒙昧な……シチュ

エイションに浮遊する」(著者「あとがき」)

ものという欠陥をもたらしてもいる。たしか

に現代詩は、「肥大する頭脳と末梢化する神

経」にわざわいされている。それを私はいい

こととは思わない。しかし、絵画からも音楽

からも離別して歩きつずけてきた現代詩の苦

渋にも私は思いをいたす。紙幅がないので要

約して言えば、詩と絵画は本質的には同棲で

きない。詩は本質に於て絵画を拒絶しなくて

はならないだろうし、絵画もまた本質に於て

詩を拒否しなくてはならないだろうと私は思

う。そういう意味で、新鮮なこの詩集の行手

にも大きな問題がたちはだかっている。











 以下、その4へ続きます。









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