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埋められた顔 [詩集 井戸]

  


  埋められた顔


女は埋めた

自分の両手の深みにこぼさないように脱ぎとり

まだ誰にも見せたことのない一つの顔を

顔の中の沼といっしょに



広々としてはてしない心のはてに小さく小さくうずくまり

ふるえる手で

もう不意にその顔が現われる気づかいのないように

輪郭の外へこぼれ出る気づかいのないように

女は独りでだまって埋めにいった

病んだ動物が仲間からはずれ

死場所をさがして独り地平のむこうの空に消えてゆくように

少しうなだれて



心の森を通りぬけ

心の湖のほとりを 水に姿を映して過ぎ

森のむこうの野原を越え

夕焼けの中に消え

もっと遠く 季節からも遥かに離れた大地

誰にも入って行くことの出来ない心の涯てに

もう決して誰にも見られる気づかいのないところに



その顔は

ひと言も叫ばぬままに埋められてしまった

その眼は

まだ一度も歩いたことのない道のはずれを

白く映したまま埋めれられてしまった



おまえのかすかに開きかかった喉の奥には

どんな叫びが用意され

おまえの色青ざめた顔の下からは

どんな表情の深みが現れようとしたのか

今はもう知るよしもない



自分の顔を埋めおわると 女は

夕焼けを肩から払い落して立ちあがり

全く別の顔をしてもどってきた

葉っぱなどを肩につけて

少し手を汚して



ふるえながら埋めた手

小さくうずくまっていた姿

そこをたずねてゆくための地図

埋められた顔にまつわるそんなもののいっさいを

一緒にそこに埋めて

いにしえの女たちが 誰にも知られぬうちに遠く出かけ

「生理」を処理してこっそりもどってきたように

女は もう決してふりかえらぬ足どりで

心のはてからもどってきた



そうして女は生きた

それからの人生を その長い距離を

表通りを



もう決してゆがんだりこぼれたりしない顔で

決してふるえたりしない手で

小雨など降らない眼

奥の方の景色を濡らしたりしない眼で

全く別の顔で生きた



誰にものぞくことのできない深々とした深さを

その底に沈めながら

岸辺の木々 季節々々の空を映し

時に のぞきにくる者の顔を涼しく映し

ボートを浮かべ さざめきの声をすべらせながら

さざ波もたてずに澄んでいる湖のように



死んだ息子を胸もあらわに腕にだいて

歎き悲しんでいたのも別の顔

埋められた顔は

その時もとうとう帰ってはこなかった



そうして年とって 黙って死んでいった女よ

それでもたった一度 いまわのきわに

遠く埋めた顔を思いうかべて

死んでいったであろうか

人の寝静まった夜更けになると

毎夜 おとずれてきて「詩人」は言う



女の心の地平には夕焼けが今日も美しく

人影のない空の下に

埋めに行った若い女は

今もその時の姿のまま 小さくうずくまり

身をふるわせてすすり泣き

埋められた顔は

そのかたわらで眼をひらいたままであると



そしてひらいた眼がうかべているものは

うずくまって身をふるわせている女の姿ではなかったと

その後女が別の顔で歩いた道のり

時として女を驚かせた夕空や木々のそよぎ

息子の死でも戦争でもなかったと

誰も今は見知らぬ男の顔

たった一度 路を通っていった男の顔であったと



そこへ行く地図を手入れたという「詩人」は

今夜もそっと心の奥にやって来て

見てきたようにぼくに言う












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