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首吊り [詩集 井戸]




   首吊り



はてしない落下だった。すべての世界すべての存在すべての蔭 落下を支える

距離や速度 自分の両手からさえ それて落ちてゆくことだった。そしてすべ

てのものの外に 立つことだった。自分からさえ入ることを断わられて 外に

立つことだった。自分の中にある坐り慣れた椅子や空 まだ体温を保って立っ

ている生の中へ 帰ってゆくことももはや出来ないことだった。自分を消し去

る無色からさえ外に立つことだった。



それからというもの ずいぶん長い夜が過ぎていったように思われた。しかし

夜に体中つつまれるということがなかった。それで寒い世界をかかえつづけて

いた。見えなくなった瞳 しかしそれだけ敏感になった瞳のすぐむこうに 雪

の降り積むかすかな気配が感じられた。夜が吐息のように音もなく 深くなっ

てゆく気配がわかった。でも外がどんなに深い闇にとざされても だれものぞ

くことの出来ないわたしの存在の芯 そこには夜からとり残された熟しきらぬ

果実の青さの薄明があった。



外(そと)の人たちは わたしを「夜だ」と言った。まだその人だちと同じ青さの空の

中に立っているのに 外の人たちはわたしをさして「夜だ」と言った。あかり

をともすことも出来ない 長い長い「夜」の持続だと。でも本当は わたしは

夜からさえ見はなされたのだ。わたしは夜の外に区別の姿で立っていた。外の

人たちは夜に触れて 自分の世界に灯(ひ)をともすことが出来た。自分の夜を持っ

ている外の人たちは 夜につつまれて 自分をそっと消すことが出来た。自分

を消して そこで夜どおし泣くことが出来た。しかし距離からさえ見はなされ

たわたしには 歩いても歩いても夜がやって来なかった。夜の中に存在を消す

ことが出来なかった。ただ独り眼ざめつづけ 薄明を持ちつづけたまま わた

しは自分の苦痛 自分の悲しみとむかいあって過ごした。そして夜明けという

ものもなかった。夜を持つ外(そと)の人々が 悲しい灯やむらさきの灯をいっぱいに

点している時 その時わたしは夜からさえ区別されて 本当のくらやみだっ

た。



やがて朝が来たが 夜を持たぬわたしは 本当のひるまを持つことも出来なく

なっていた。人々はわたしをさして「蔭だ」と言った。いったんそこに溜った

水溜り いったんそこにまで満ちてきた海 それらがいつまでも乾かぬ蔭だ

と。どんな明るさをもってしてもぬぐい去れぬ背のままの蔭だと。どんなに明

るい天気がすぐ外に来ても それ自身はいつも陽のあたらぬ世界 たまにそこ

へ入っていった天気も すぐに消されてしまう世界だと。



でも本当はわたしは蔭でさえなかった。夜にもひるまにも蔭にさえも属さぬ世

界 それらを越えた 落下のはての無限の広さだった。

わたしは叫んだものだ。落ちてゆきながら。外(そと)の夜にむかって 外のひるま 

外の空にむかって。わたしを わたしの存在を消してくれと。しかし何ものも

それに応えてくれなかった。ただ深い沈黙だけが わたしをとりまいていた。

そして前よりも一層限りない区別 一層深い静寂の中に これ以上落ちこみよ

うのない世界に わたしは立たされていた。

今は 外からのさまざまな声に耳かたむけ それを吸いとっているかのように

小首をかしげ しかしみずからはひと言の叫び声もたてず 夜の区別 ひるま

の区別も及ばぬ世界 それらを越えた世界に わたしはつまさきだちして ぶ

らさがっている。










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