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唖 [詩集 井戸]

   


   唖

   ーー或る唖の人の死にーー


彼の眼と外の景色との間には 常に「寂寥」がひそんでいた。「寂寥」は眼に

見えず 透明な真空のように 一刷(ひとはけ)のかげりさえもなく つかみどころはなか

ったが 彼の眼と外の世界との間にはたしかにひそんでいた。それ故に 彼が

見るものは 景色も歩いている人影も みんなさびしく見えた。彼は「寂寥」

のむこうに いつも手がとどかない遠い姿で立っていた。



彼は彼の心の地図の それをたどっていったら どんな遠くの世界に通じてい

るのかわからない路のはずれから だんだんと姿を そしてそれにつれて二つ

の眼を 深くしながら大きくうかびあがらせて 外の世界の方へ現われてきた

が 「寂寥」のふちに立ちどまると もうそこから外へ踏み出してくることは

なかった。「寂寥」のむこうから「寂寥」のつめたさをとおして 木々のかす

かなふるえを見 そよ風が蔭の奥を吹き過ぎるのを見た。



人とむかいあっている時も いつも「寂寥」のむこうで 白い手旗を振るよう

に 音もなく手を振って話した。そしていっしんに手旗を振っていた人影が

疲れて黄昏 丘の上から立ち去るように 話し終った彼は いっそう深くなっ

た「寂寥」を残して その奥へと立ち去っていった。



季節は彼の「寂寥」のすぐ外に その境い目のところまでやって来た。夏のさ

わやかさが「寂寥」をひっそりと涼しくし 秋は「寂寥」の深みの方へ眼に見

えぬ姿でしのびこみ 枯葉を「寂寥」の中に何枚か落してゆき それよりもも

っと奥深いところに立っている彼の姿を 濃くしたりうすくかげらせたりし

た。そして雨は細く静かに降り 「寂寥」をかすかに濡らした。しかし奥まで

 彼が立っているところまで 降ってゆくことはできなかった。彼はいつも

それらのむこうに白く乾いていた。



「寂寥」のむこうに立っている彼を捕えようとして 言葉の投網を人は投げ

た。網は「寂寥」の空に 一本々々の網目をうき出してひろがった。しかし網

をたぐると 網の消えた空に どんなに奥まで投げ どんなに深いひろがりで

ひらいた網目よりももっと奥に 彼はもとのままの姿でとり残されて立ってい

た。言葉の投網を投げた者は 人影もないままに沈んでいる暮れ方の海辺を

不漁の網を背負い うつむいて帰ってくる漁師のように自分の世界へと帰っ

てきた。



誰も入って行けぬ「寂寥」のむこうに 彼の世界は 人影のないまま忘れられ

た広場のようにしてあった。唖の彼はそこに現われ 立ち去り 寝起きし そ

してそこで夢を見た。時に彼は 何か大声でわめくような口つきをして 「寂

寥」をふるわせながら 外の世界にむかって 雨に濡れることができ 木々の

葉のそよぎの音をきくことのできるぼくらの世界にむかって 走ってくること

もあった。けれどもやはり「寂寥」を踏み破ることが出来ずに その境い目の

ところまで来て立ちつくすと 後姿を見せて帰っていった。そういう時 彼が

立ち去ったあといつまでも「寂寥」のふるえはかすかにつづいていた。そして

そのふるえのすき間をとおして そのむこうに 彼の魂が まだぼくらの誰も

が眼にしたことのない海のように 深い色をして沈んでいるのが見えた。













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