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木 [詩集 井戸]

   


   木


  1 立木


わたしは坂の上に立っている思い出だ

思い出の深さがそのまま

わたしの木陰の深さだ



思い出がわたしの心をやさしくし

わたしの木蔭の奥ゆきを深める

そうしてわたしは幾つもの涼しい季節

幾つもの思い出をくぐってゆく

そのたびにわたしの年輪はひとまわり大きくなる

それだけわたしの世界は空の中に広くなる



 2 夕暮時


夕暮がやって来る

遠い海岸に白い素足で上陸し

一筋の路を 町々のふところ深くへやって来る

やがて坂を越え さらに遠く

町のはずれの方まで人通りのない路を下がってゆく

わたしは不思議に明るい夕空の中にとり残され

帽子をかぶった無口な男の姿で

自分の蔭を曳き 眼をひらいたまま

坂の上に立ちつづけ

やがて深夜の方へ傾むいてゆく



  3 夏


過ぎ去った夏の記憶が

わたしに鮮かによみがえる

夏はわたしを日盛りの中にしんと立たせ

わたしの木蔭を一層深くする



日盛りの中から素足のまま

不意にかけこむなり わたしを見上げ

やがてわたしのひっそりと静まりかえった蔭の世界を

眼をひらいたまま素通りし

わたしの一番高い梢を

空の境まで登っていった子供の記憶がよみがえる



眼をかがやかして彼がそこから見た世界が

ひろがって見えてくる



わたしはその時も ちょうど今日のように

ざわめきをとめてそっと立っていてやった

空がばかに青く

やがて降りていったその子の行方を

わたしは憶えていない



   4 ふるえ


わたしはわけもなしにふるえている

空の青さがふるえを一層鮮かにする

わたしの耳はかすかな気配を風の底に聞いている

わたしの背筋は何者かが通り過ぎる気配におびえている



わたしの梢から叫び声もたてずに墜ちていった子供があった

それは遠く過ぎ去った夏の出来事だ

けれどもこうしている今も

わたしには墜ちた子の姿が見えてくる

道に横たわったまま なおも

わたしの梢を見上げていた不思議な眼を思い出す

水溜りのようにうるんだ彼の眼の中にひろがっていた

あこがれのように遠い世界が見えてくる

その遥かな世界を歩いていた人影が 死の姿をして

水溜りの底を横切っていったのも見えてくる



わたしはその時 ほんのちょっと枝をふるわせてやっただけだ

それだけですんだ

わたしはその子を遠い世界へ送ってやることが出来た

夏がめぐってくるごとに

死んだその少年が あの時と同じように無口のまま

眼も動かさず 風の気配のように

わたしの下を通ってゆくのを知っている



  5 悲歌


その小鳥は迷いこんできた

外に風のつめたい日

くちばしを傷つけて

わたしが空の中にひろげている蔭を

かすかに乱し

誰も入ってきたことのない

ひっそりしたわたしの世界の中へ



小鳥は 外を飛んで来た疲れと

傷ついたくちばしの痛みとで

しばらくはわたしの空の中でもがいていたが



やがてわたしの枝に憩い

わたしにはわからない恐怖をたたえた眼で

あたりを見まわし 小首をかしげ

遠い空を凝視しはじめた



間もなく くちばしをなおし

乱れた羽をそろえ

息を整えると



ふいに わたしの枝をけって

ふたたび外へ

どこかわからぬ わたしにはただ

夢のように遠い世界へ

飛んでいった



ああ わたしの世界はふたたび

もとの誰もいないひっそりした世界にかえり

小鳥が飛び去っていった距離も

やがてやさしい空が

もとの深さでうめてくれたが



小鳥が飛び去る時

ゆすっていった枝だけは

もとの深さに澄んだ空の中で

つかみどころのない「悲しみ」のように

いつまでもかすかにふるえている



   6 かなしみ


どこかで銃声がする

すべての木々が話をやめて耳を澄ます

けれども空には何も見えない

一羽の鳥の影もない



銃声が残していった谺もかすかになり

やがてそれは記憶がとぎれるように

静寂の中に消える

驚いたあとの空はいっそう青ざめている



わたしはもとの静けさをとりもどして立つ

するとわたしの繁みから

一羽の小鳥が 

血ぬれたくちばしをして墜ちてくる



   7 雨


細く 雨は降りつづき

思い出は濡れたままに立っている



人々は 濡れた素足のままでわたしの世界にかけこみ

しばらくはなりをひそめて雨をよけている



外が雨に濡れてゆくにつれて

かえってわたしの思い出の地図は鮮かになる

空はまだ 保たれている体温のように

わたしの記憶のはずれの方で 澄んでいる



やがて人は

濡れた足跡だけをわたしの胸に残して

晴れあがった外へたちかえってゆく



雨もやみ 人もみんな立ち去っていった頃

はじめてわたしの葉はふるえだし

わたしの思い出の繁みの中を

悲しみの風が吹きぬけてゆく

そしてわたしの世界のところどころに

いつまでも乾かぬ水溜りが

涙の跡のようにできている













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