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涙 [詩集 井戸]



   涙

   ーーそのモノローグ


おれは見てきた

と言ってひとしずくの涙が話す



眼の裏にある遠い世界を歩いてやって来た

誰もみたことのない海

眼の裏に沈んでいる深くてつめたい海を見てきた

それから はてしない昿野を横切ってきた

入って行った者は誰も

もどってきたことのない眼のむこうにひろがる世界から

眼に涼しく映っている木立や蔭の重なり そして空を

少しも乱さずそのままにして

おれはオルフォイスのように

そっと独りで帰ってきた



深々としてつぶらな眼

それは実数と虚数にあるゼロ地帯のようなものさ

はっきりした境界なんてものはないのさ

そこを通る時は沈黙の中を通るように

ただひんやりするだけさ

けれどもそこを通り過ぎて向うに現われると

すべてのものはもう姿を変えている



眼の中を海は景色を濡らさずに静かに通る

水にひそむ深さをそっと運び

深さと難破船を眼のむこうの世界に置いて

また眼の中を通ってひいてゆく

遠く水平線のかなたに

満ちてきた時よりもさらに遠く 透明になって

それはどこかにあるはずの海だ

けれども眼の外のどこにもない海だ



女の眼の中に青ざめた男の顔が投げ込まれ

しばらく溺れていたが

やがて悲鳴も残さずに沈んでいった

その男は今も眼の裏の世界に 青ざめた顔をして生きている



眼の中を通って 夕焼けは

むこうの世界に限りなく一面にひろがる

白い路は むこうの世界にはてしなくつづく

電線は北の国の方までつづく



眼の中を通って長い汽車の列が入ってゆく

だまって腰かけている人々の姿を窓辺に映し

国境を越えてはてしない平原に入ってゆくように

汽車は白い煙を青空に長くなびかせて

眼のむこうにひろがる世界のはてにむかって

ことこと走ってゆくだろう



眼の中を通って雨はむこうに静かに降り進んでゆく

外が晴れあがったあとも むこうの世界だけに降り

人知れず舗道を濡らしている

風は眼の中を通って見えなくなる

けれども眼のむこうの世界の路に

音もなく枯葉が散っている



眼の中の路を歩いていた人影は

まばたきとともに姿を消す

しかし眼をあけると

いつのまにか眼の裏の世界を歩いている

四辻を小さな姿で曲ってゆくのが見える



眼の中を通ってめくらは迷わずに路をたどる

眼の中を通って後手に縛られた囚人たちは

自由になって彼らの故郷へと帰ってゆく

眼の中を短い葬列が通ってゆく

そして死んだ者の体は 眼の裏の大地にねんごろに埋められる



時として何も通っていない時

眼の裏の世界には ただ空だけが深く澄んでいる



すべてのものが眼を通って入ってゆく

しかしすべてのものがそこに沈んでいる故に

人の眼は乾いた夏の中でも奥深い色をたたえている



おれは その世界の深みから

遠い距離を歩いてやって来た

そしてそこからもどってきたのはおれだけだ



おれは 手にとれば消えてしまうひとしずくだ

しかしおれは その小さな世界に

一つの宇宙を構築するだろう












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