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短歌的抒情覚書 1  (その3) [評論 等]



 今日、短歌について考察することは、広末も言っているように文

学の伝統としての短歌つまりは僕らを「生んだ母の力」としての短

歌をいかなるものとして発見するかという「主体の問題」と切り離

してはあり得ない。このことは短歌を否定するしないの問題に先行

する問題であり、そもそも否定あるいは肯定そのものが短歌の発見

と切り離してはあり得ず同時的に進行する。そしてそのことを除い

ては「いかなる形において」も、つまり否定的にせよ肯定的にせよ

われわれは短歌を「顕在化する」ことが出来ない。現代短歌が記紀

万葉以来の伝統的な和歌の発展的継承あるいは止揚を経て存在して

いる以上、伝統の持つ「半ば自己意思的な」拘束力から「恣意的に

自由に」なれるものでないことは言うまでもない。しかし、例えば小

野十三郎が短歌の「リズムにはまた一定の思想しか乗り得ない」と

いう時、或いはまた桑原武夫がその「第二芸術論」に於て「俳句に

新しさを出さうとして、人生をもり込まうといふ傾向があるが、人

生そのものが近代化しつつある以上、いまの現実的人生は俳句には

入り得ない」と言う時、彼らは余りにも機械論的運命論的に伝統の

持つ「自己意志的」な側面のみを強調し過ぎているのではないかと

思う。つまり彼らは伝統の持つ「半ば自己意志的」な側面に対し

て、小野自身の言葉を借りて言えば「奴隷的」であり「詠嘆」的で

さえある。そしてそのことによって彼らは短歌の発見に於て、また

対決に於て余りにも恣意的であり自由気ままであり過ぎるという傾

向がないとは言えぬように思う。しかも小野にしても桑原にして

も、短歌や俳句の最高のもの、真に対決するにふさわしいものにた

ちむかうよりは、それらのうちの低いものにむかうことによって彼

らの否定的見解を述べている傾向がある。(小野の場合について言

えば先に引用した短歌に於ける「思想」と「リズム」(形式)の説明

として啄木の「石をもて追わるるごとく……」一首の引用にとどま

ているし、桑原の場合は栗林農夫も言っているように(「俳句の

近代詩への発展」その「第二芸術論」に「現代俳句批判」という副題

をつけることで注意深く現代以前の例えば蕉風との対決を避けてい

る)そういう仕方で彼らの否定論を展開する時、それは極めて明快

でけいきのよい響きを持ち得る。しかしその明快さのかげに現実の

問題としての伝統の問題は取り残され、そしてそこに目立ってくる

のは非生産的な性急さである。ここで私達は再び広末保の次のよう

な言葉に耳を傾むけるべきであろう。「短歌、俳句との対決は依然

として今日の問題である。しかしそれは、その伝統の最高の高さに

おいて対決されなければ転化への道をひらくことができない。」(文

学」前掲号)このことは短歌の問題を論ずる際にゆるがせに出来ぬ

前提である。











以下、2へ続きます。






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