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短歌的抒情覚書 2  (その2) [評論 等]




 これらの三点は短歌を具体的に論ずる際にどれもゆるがせには出

来ぬものであろう。しかしとりわけ主要な問題点は、短歌が「今日

の吾人を十分に写し出す力」を持つものであるのかどうかという点

にあるだろう。そして私の疑問もこの点にかかわって出てくる。つ

まり「今日の吾人を十分に写し出す」と言う時、ここに言う「今日の

吾人」とはいかなる「今日の吾人」を「写し出そう」というのであろ

うか。同年翌月の同じ「創作」誌上に啄木は「一利己主義者と友人

との対話」を書き、「いのち」「全生命」という言葉を使いつつ紫

舟の「滅亡私論」にふれているが、啄木の言葉を借りて言えば「い

のち」「全生命」とはどういう内容のものなのであろうかという疑

問である。私が問題にしているのは紫舟や啄木についてではない。

むしろ今日短歌に対して否定的な立場に立っている論者の見解につ

いてである。彼らは散文文学に基準を置いて、そこから散文文学に

要求するものと同質の「今日の吾人」を、短歌もまた同様に「写し

出す」べきものとしてそのまま短歌に要求しているむきがないかと

いう疑問である。そういうものとして「いのち」「全生命」を要求

しているのではないかということである。むろん散文に於ける「今

日の吾人」も短歌に於けるそれも、深い底に於ては別の物ではない

であろう。しかしそれぞれのジャンルに於ける具体的な現われ方の

特殊面を無視して論じているむきがないかどうか。そしてそのこと

によって、「和歌をば一般文芸のうちに入れて概論してゐる」(茂

吉「石榑茂を駁擊す」)きらいはないか。つまり茂吉の言う「短歌

は叙情詩である」ということを忘れ、そこからして、「しかし全然

観念的内容を有せざる芸術的作品がないとしても、而もすべての観

念が芸術的作品の中に表現され得るものとは限らないのである。ラ

スキンは見事に言ってゐるーー少女は失はれたる愛について歌ふこ

とは出来る。しかし守銭奴は失はれたる金について歌ふことは出来

ない。」(プレハーノフ。茂吉の引用に従う。)ことを忘れて「すべて

の観念が芸術的作品の中に表現され得るもの」としての要求を抒情

詩である短歌に要求しているむきがはたしてないかどうか。しかも

この場合の散文文学の基準は、案外に日本自然主義的文学観に基ず

いている面があるのではないか。そうであるかぎりそういうものと

しての「今日の吾人」を「十分に写し出す力」を短歌が持ちあわせ

ないのはむしろ当然と言うべきだろう。










以下、3に続きます。





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