SSブログ

短歌的抒情覚書 3  (その3) [評論 等]




 私はすぐれた短歌が、さまざまな否定的側面を持ちつつも、その

内にすぐれた抒情をひそめており、そしてそれは新しい抒情へと発

展し得る可能性を持っているものであることを茂吉の一首を例に言

おうとしたのだが、そのような可能性はすぐれた短歌の多くが持っ

ているものである。例えば茂吉の「赤光」一巻はさまざまな可能性

を内包している抒情によって支えられていると言うことが出来る。

 私達が短歌との対決に於て心がけなければならぬことは、小野の

言うような(小野の言おうとするところは分かるが、そしてむしろ

小野の意志を単なる観念として空転させずに現実的に実現させるた

めにも)、「短歌的抒情であろうが、知的抒情であろうが、凡そ、抒

情と目されるものは一切否定する」という性急な方向をとることで

はなく、さまざまな否定的側面を持ちつつもなお、短歌がその底に

持っている可能性を、(否定的側面の否定という作業を同時的に行い

つつ)可能性として生かし発展的に継承するということにあるだ

ろう。つまり主体の問題がそこにあるわけである。このことは、小

野の言うように「非常な楽観論」として片附けてしまっていい問題

ではない。

 さらにこのことと関連して「一切の主体的な運動からの徹底した

自己疎外、歴史に対して常に絶対面で自己を対位させる中性的な人

間主体」がいかに「短歌をして現代文学としての成立を困難ならし

めたか」(菱川善夫「行動的抒情の論」短歌研究昭和35年6月号)

について私達は真剣に考えなければならないのであるが、しかしま

た同時にそういう困難な状況の中で歌いあげられたすぐれた短歌が

菱川の言うように「すぐれた個性が、偶発的にその欠陥をのがれ」

得たことで成立したのかどうか、つまりそれは単に「偶発的」な結

果がもたらしたものに過ぎなかったかどうかを具体的に考えてゆく

必要があるであろう。そしてそういう具体的な考察への方向をたど

ってこそ彼の言う「価値の理論化」がはたし得られるのだ。

 私達は「吾を生ましけむうらわかきかなしき力」としての短歌に

真剣に対決することによって「うらわかき力」と「かなしき力」と

を判別し、そこから私達を生かす力を受け継ぎ、私達自身「母」に

なっていかねばならない。



 附記 私は短歌の形式の問題について詳しくふれつつ、そこから

  「短歌的抒情」の規定にまで進みたかった。私は短歌のもつ抒

  情を「短歌的抒情」という称呼をもって、他の抒情一般から区

  別する必要を認めないのであるが、それについての説明をする

  方が、短歌の問題により具体的にふれることになったかとも思

  うが、今の私にはその点について充分に意見を述べる程の力を

  持ちあわせていない。私は勉強の必要を強く感じている。
















nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。