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芭蕉の一句   (その5) [評論 等]





 つまり私は「民衆的創造的契機」が「主体的に自覚され蓄積さ

れ」そして「新しい芸術創造の力となりうるような古典」の「形

成」が芭蕉及びその一門蕉門にあったと言えると思うのである。

芭蕉に於いて伝統は対決され、そして芭蕉に於いて伝統は対決す

べき伝統、「古典」がうち立てられた。勿論そこには芭蕉という

一天才の力があずかっているわけだが、それと共に私は蕉門一門

の姿をも思いうかべるのである。芭蕉を中心として展開された蕉

門グループの文学精進の激しさ、ひたむきを思いうかべる。



 「此木戸や錠のさされて冬の月           其角



『猿蓑』撰のとき、この句を書きおくり、下を冬の月、霜の月煩ひ

はべるよしきこゆ。しかるにはじめは文字つまりて、柴の戸と読め

たり。先師いはく、『角が冬・霜に煩ふべき句にもあらず。』とて、

冬の月と入集せり。その後大津より先師の文に、『柴の戸にあらず

此の木戸なり。かかる秀逸は一句もたいせつなれば、たとへ出板に

及ぶとも、いそぎ改むべし。』となり。」



 「うずくまるやくわんの下のさむさかな       丈草



 先師灘波の病床に人々に夜とぎの句をすすめて、『今日よりわが

死後の句なり。一字の相談を加ふべからず。』となり。さまざまの

吟ども多くはべりけれど、ただこの一句のみ『丈草できたり。』と

のたまふ。」



 「下京や雪つむ上のよるの雨           凡兆



 この句はじめ冠(かむり)なし。先師をはじめいろいろと置きはべりて、こ

の冠にきめたまふ。凡兆『あ。』とこたへて いまだ落ちつかず。

先師いはく『兆、なんぢがてがらにこの冠を置くべし。もしまさる

ものあらばわれニたび俳諧をいふべからず。』となり。」



 先師芭蕉がこういう具合であり、それをとりまく弟子達もまたこ

ういう具合であった。晩年の芭蕉に「此道や行人なしに秋の暮」の

句があり、この句は単なる叙景に終るものではなく、「『此道』と

は、何も俳諧の道にかぎるまい。生涯の伴侶であった寿貞の死も

含め、また身寄も知人も世上一般の人々をも含めて、いや、それ

ら身辺の事実を超えて、芭蕉の孤独な心の寂寥感が発した人生詠

歌が『此道や』なのである。」(山本健吉『芭蕉』)としても、そ

れにもかかわらず芭蕉と蕉門の者達の間はこういう緊密さと真剣

さをもったものであった。一方にこういうものを従え、一方に芭

蕉の才能をもって、そこに出てきたのが例えば「行春や鳥啼き魚

の目は泪」であったろうと私は思う。











以下、その6に続きます。




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