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芭蕉の一句   (その6) [評論 等]





 一般に芭蕉の自然への投入、自然との結びつきということが言

われ、芭蕉自身「造化にしたがひ、造化にかへれとなり」(『笈の

小道』)「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」「師の日、乾

坤の変は風雅のたね也といへり。」(『あかさうし』)等を引くまで

もなく「自然」について多くを言っている。しかしその自然に対

していった対決の仕方、自然の発見の仕方は一部概括家が言うよ

うな自然への逃避などというものではなかった。何よりもこの句

に於ける「行春や」の感動内容についてみてその事がはっきりと

言える。この句に於ける「行春や」の感動内容。詩的内容は、例

えば「花は根に鳥は古巣に……」の崇徳院御製とも「桃李不レ言幾

暮……」とも「ふるさとの花のものいふ」とも「月やあらぬ春や

昔の春ならぬ……」とも「祇園精舎の鐘の声……」とも「行く川

の流れは絶へずして……」とも、また杜甫の『春望』のものとも

違っている。この句に於ける「行春や」の感慨は、単なる惜春の

情でないことはむろん、単なる人生無常観でもない。ここには諦

念以上のものがあり、もっと人間くささ、人間の肉声が明らかに

聞きとれる。そして「行春や」をかようにきわだたせているもの

は、二句及び結句の「鳥啼き魚の目は泪」というすぐれた詩句のも

たらす感動とイメジによるものである。私は「鳥啼き」という表現

から、晴れて深く澄んだ空を(「行春」であるからやがて初夏に移

る空であうにもかヽわらず、なぜか秋の方へ深まってゆく静かでも

のわびしい空の気配を感じる)喉を細めのばして啼き飛んで行く鳥

の姿を想いうかべるのである。細めのばした喉からしぼり出るよう

にして発せられる声は、静かで深い色の空の中に響きしみこんで何

時までも耳を離れない。その啼き声がきわだってきこえてきて、の

ばした喉の細さ、空を飛ぶ鳥のさまざまな姿態は鮮かに見えても、

不思議に私には飛ぶ鳥のはばたきは聞えてこないのである。それだ

け一層啼き声は悲痛なものに響いてくる。「魚の目は泪」が実景で

あったかなかったかの詮議にかかわらずこの表現のもつフイメジは

すばらしいものである。泪しなくとも魚の眼はうるんで見ひらかれ

ているのだが、そこへ「目は泪」と泪をもってくると、「行春」の季

節感がきわめて鮮かでかげり深く感じられ、目に映っている景色や

空、そして「鳥啼き」の鳥の姿もそこに映り、またはそこをよぎっ

ていっただろうが、そういうもろもろがじっと見ひらかれて動かな

い泪にうるんだ魚の目でものすごいばかりの姿をうき出させてくる

のである。「夜の更る事眼に見へて心せはしきと也。」に於ける芭

蕉の「かく物の見ゆる」眼の冴えと同様のものを、私は「目は泪」

の目に見るのである。こういうすぐれた表現に支えられた「行春

や」の感慨は、自然に即して自然の相、姿に迫り、それをとらえき

り、そのことによって人生の広さ深さを表現し得たと言うことが出

来る。そしてここに杜甫の『春望』は深い意味に於いて生かされた

とみてもいいであろう。











以下、その7へ続きます。



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