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私自身 [評論 等]





   私自身


 地下鉄

の階段を

おりて行

くと、開

札口の前

に多くの人が群らがっていた。開札

口を入ったところにも同じように人

が群らがっている。私には一目で、

駅近くにある新興宗教の本部からの

帰りの人々であることがわかった。

彼らの多くは老女であり、なかに老

人や中年の女たちもまじっている。

一様に垢ぬけのしない身なりをして

いるところから推して、東京近在か

らその日出てきた人々なのだろう。

 群らがって何をしているというの

でもない。ただまごまごしているの

であり、ばか丁寧に別れの挨拶をし

ているのである。そういう彼らの間

をぬって、世話役風の老人が行った

り来たりし、要するにただ無益なふ

るまいをしているだけなのである。

はためにはいらだたしい光景であり、

迷惑この上ないことであった。なぜ

駅員は注意するなり、整理するなり

しないのだろう。

 やがて、行きずりの中年の男がど

なりなじめた。おまえさん達は、は

た迷惑と思わぬか、まごまごしやが

って……云々。自分の声に興奮して、

男は次第に大声になってゆく。新興

宗教など信じやがって、迷惑をかけ

てるざまで、何が信心だ……。そん

なことまでも男は言った。どなられ

て彼らはきょとんとしている。迷惑

は迷惑としても、それほどのことを

言わなくてもいいではないか、そう

いう批難めいた表情が彼らの顔に現

われるのが普通であろうと私は考え

たが、彼らは子供のようにおびえた

目つきをして、ただまごまごするば

かりであった。

 私は想像した。老女たちが信心を

するに至ったいきさつの中には、あ

の男の抗弁のようにはっきりと口に

出しては言えない、複雑な事情があ

ったのだろう。能弁とは反対の、口

ごもるしかないいきさつや、ただ信

じることでしか支えられない幾多の

事柄といったものが。彼女らの中に

は、息子を戦死させたことが大きな

原因になって、信心に傾むいた者も

いるかも知れない。そうとすれば、

息子が順当に生きていた場合、今彼

女らをどなっている中年男と同じ年

格好になっている筈だったのではな

いか。

 ところで、あの中年男の威たけだ

かな口調を、色々な場面で、私は聞

いてきたように思う。「論理」におい

て決してまちがっているとは言えず、

しかしその「論理」によってたつ基盤

において、人間の生きた生活と感情

のヒダを切り捨てた物言いを。時に

その言い方が、猫なで声の場合もあ

ったが。

 そして私はと言えば、何時もあの

時のように、あいまいな身の処し方

でその場を通り抜けて、この年まで

やってきてしまったのではないか。











 「無限通信」3号 S46年 12月1日



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