幾つかの詩 (その6) [評論 等]
昭和三十年頃であったと思う。その頃私達は「貘」という雑
誌をやっていたが、或日、同人達ーー大野純や嶋岡晨や片岡文
雄たちと新宿で集りを持ち詩を語ったり酒を飲んだりした。そ
の頃はいつもそうだったが、夜も更けてさて別れようという段
になっても、各自なかなか立ち去ろうとせず、それではもう少
し先まで行って別れようと言っては、ぞろぞろ歩いて行くのだ
が、そこでもまた別れる気にならず、ついには誰かの家に泊り
こむということになるのだった。阿部弘一が同人に加わってか
らは、たいてい彼の家に泊ったが、その日は、大井にあった片
岡家、片岡自身が名づけて「掘立小屋」と呼んでいたまことに
小さな小さな家に泊ることになった。みんな酔っていて、殊に
も酒の飲めない片岡は真赤な顔をし、途中で交通整理などをし
ながら歩き、一番大人であった大野は道に警句を弄しながらつ
いてきた。
さて掘立小屋について、私たちはその小さな小さな部屋の中
に横たわった。みんな思い思いのことがらを語りあっていた
が、やがて嶋岡がつと腕をのばして、傍の書架からエリュアー
ルの詩集をとり出した。そして彼はあの「自由」と題する高名
な詩を読みはじめた。嶋岡は少してれながら、最初低い声で原
語を読み、それから今度は日本語に訳して読んだ。「何々の上
に、何々の中に……」というあの長いリフレーンが続けられて
ゆく。私は部屋の隅で、私もまた少してれながら耳を澄まして
それを聞いていた。やがて、あの最終行が読み終わられた時、
私は言いようもない感動にひたされた。その後私はこの詩の
訳を自分の眼で読んだ。しかしあの晩、嶋岡の声を通して得
たほどの深い感動はどの訳詩からも得られなかった。
2015-06-23 21:08
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