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友だちの詩   (その1) [評論 等]





   友だちの詩


 或る時期、私は共産主義に近づいていったことがある。そのこと

を阿部弘一に話すと、「一つの思想に共鳴することはいいが、しか

しやはり外にいて、絶えず批判する態度を失わぬような生き方がい

いのではないか」という意味のことを、彼特有の遠慮っぽい言い方

で言った。同じことを別の機会に嶋岡晨に話すと、「それはいいこ

とだ。何事にせよ外にいたのではそのものの本質を本当に理解する

ことは不可能だ。ただ、いやになる時がきたら無理をせずに離れた

らいい」と言った。二人の友人は全く別の意見を述べたのだが、私

は、それぞれあたたかな思いやりのこもった言葉として受けとっ

た。やがて私はそれから離れたのだが、そのことを彼らに話すと、

阿部は「そうか」と言った。嶋岡も「そうか、それはいいことだ」

と言った。私はそうなるについてのいきさつを詳しく話したわけで

はなかったが、阿部も嶋岡も私の身のふり方を素直に認めてくれ、

やがてこだわりなく別の話題に転じていった。彼らの発言は私に対

する無関心から生じたものではなかった。おまえはおまえとして充

分に考えた末の行動なのだろうから、おれたちはそういうおまえの

判断を信じる、というおもんばかりがその底にあった。

 大野純があの時どういう判断を示してくれたか、なぜか私は忘れ

てしまったが、おそらく「ふーん」と言って認めてくれたのだった

ろうと思う。会って雑談をすると、大野は「笹原、今何を考えてい

る?」と聞くことがあった。それは私がどういう問題について考え

をめぐらしているか、という意味である。そして私のしゃべるたわ

いもない事柄までもよく聞いて、それを自分の参考にするという態

度が彼にはあったのだから。片岡文雄はすでに四国に帰っていた

が、東京にいれば同じような理解を示してくれたにちがいないと思

う。

 私の詩友は数少いが、しかし彼らはいつしか私にとって生涯の友

人になった。昨年私は十数年ぶりに餌取定三に会ったが、会ってみ

ると歳月のへだたりは一瞬にして消えて、かつての日と同じように

餌取がそこにいると思うだけで心がぬくもってくるのを感じた。

 私たちはほぼ同じ頃に詩を書き始めたが、すでにその頃から、彼

らは詩に関する確固たる定見を持っていたように私には思われた。

それにひきかえ私は、何時までたっても素人の域を脱することがで

きず、詩の何たるかもはっきり知らず、ただ手さぐりでおぼつかな

く書いていたにすぎない。そういう私は、知らず知らずのうちに彼

らから多くのものを学んだ。詩のみならず、人としての生き方につ

いても。











以下、その2へ続きます。

 「詩学」 S48年 11月号



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